(649) モンゴル日記(364)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて112 】

 さらば城砦!筆者たち3人は足もとに注意を払いながら下った。上の写真は岩が積まれた”石垣”を下りていく場面だ。山の下りは、上りよりは気を使わなくてはいけない。慎重さが求められる。筆者も若い頃、新潟地方の山々をけっこう登った。だから,この原則は知っている。

 ところで右側の人物はB氏で、さすがの彼も一歩一歩ゆっくりと下りて行った。何せ彼は身長190㎝以上、体重の方も楽に100kg以上はあるらしい。が,他人に尋ねられると100kg以下と答えるようだが。一方,もうひとりの相棒J氏はすでにこの”石垣”を過ぎていた。こんなとき J氏はいつも早い。それに対して,筆者はいつも遅い。写真をあちこちで撮るからだ。ただ,この城砦ではその多くが風景となった。

 写真下は”石垣”を降りてから、振り返って見た城砦の風景である。しばらく眺めていたら一瞬,奇妙な感覚に襲われた・・・どこからか,兵士たちのどよめきが聞こえたような気がしたのだ!ン?!

 そうして,少しセンチメンタルな気持ちにも陥った・・・再びこの地に来れないかもなァ。この城砦もまた訪れることもないだろうなァ。さらには・・・どうして今おれはここにいるんだろう?  と,この国でたまに抱く例の不思議な気持ちにとらわれていた。と,「おいてくよ、シャチョー!」、大きな声が聞こえた。

ときどき錯覚、ときどき思索。 (K.M)

(648) モンゴル日記(363)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて111 】

 尾根の端に止めてきたクルマのところに戻ろう。それで3人がこの「城砦」を下りはじめた。写真上はその時に通った、整然とした岩の列である。これは人工物ではなかろう。きっと自然のもので、節理が地表に現れたものだろうか?

 節理は立っているものがふつうと思っていた。日本ならだいたい崖をなしているような所が多い。けれど、ここでは寝ているのだ。ちょっと不思議に感じた。おそらく人類が出現しないはるか大昔、この北モンゴルの地殻では大規模な変動が起きたのだろう。それはともかく、ここは歩きにくかった。

 下の写真は、下山しながら南方面を望んだ風景である。山裾を通ってくるシシケッド川の上流の方が見渡せた。こうして眺めていると、川幅が広い箇所もあるし,水量も豊かなことが分かる。やはり,なかなかの大河なのだ。ところでこの時点では、午後からこのシシケッド川を横切ることになろうとは全く予想もしていなかった。

 だいたいここでは考えてもいないこと,予想外のことをいろいろ体験させてもらっている。乗馬といい、この城砦上りなども想定外のこと。B氏を中心にして、日本からの旅人を退屈させまいとして様々なプランを組んでくれていた。その気持ちはありがたかった。午後からのシシケッド川横断-対岸上陸の計画もそうだった。ボートは既に手配していたようだった。

 日々アドベンチャー、日々発見。 (K.M)

(647) モンゴル日記(362)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて110 】

北モンゴル最奥部を訪ねて110

 上の写真はここでのいわば記念写真。頼まれてB氏とJ氏のツーショットを撮った。二人の背景には、ちょうど流れ雲,草原,テングス川,そして国境の山々が入った。奥行きを感じさせ、筆者としてはピンボケもない良質な写真となった。

 この2人に、キャンプに残っているT氏を加えた3人は、もう数十年来の付き合いらしい。彼らはそもそも留学生仲間だった。3人は旧ソ連時代にモンゴルの国費留学生として、名門カザン大学に学ぶ。この大学は革命家レーニンが学んでいたことでも有名だったが、彼は結局,放校処分にあったらしい。レーニンとは全く関係ないが、実はB氏のきれいな奥さんもカザン大学留学生組だったようだ。なーるほど。

 それはともかく、この留学生仲間という絆は固いようだ。そして,モンゴルの色んな分野で彼らの仲間が活躍しているらしい。B氏のそうした友人たちに、筆者も何度か紹介された経験がある。

 さて下の写真だ。この城砦の低い草地には、この花があちこちで咲いていた。湿り気のある草むらで、突き出したように伸びていた。草丈は40,50㎝、おそらくシソ科のオドリコソウの仲間かと思われる。この花、この北モンゴルではあちこちで見かけた。日本種よりは大きいように感じる。前述したかも知れないが、シソ科植物は北モンゴルでは多く分布しているようだ。

 日々 仲間、日々 絆。 (K.M)

(646) モンゴル日記(361)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて109 】

北モンゴル最奥部を訪ねて109

 ここでは東側以外、あっちもこっちも見晴らしがよかった。そして驚いたことに、こんな場所にもオボーがあった!つまり人々がやって来ている証左だ。

 筆者はひとりで城砦の中心部をじっくり見てまわった。その後は周辺の植物探訪を始める。けれど,めぼしい植物には出くわさなかった。やがて尾根を進み、だんだん下りていく格好になった。そのとき上の方から、「シャチョー、まだ下りちゃダメだよ」。B氏の大声が聞こえた。

 ふり返ると、遠くにB氏とJ氏がいた。三方を断崖に囲まれたこの山の南東側に、こうした小高い地点があったのだ。ひょっとしたら,これが頂上というべきかも知れない。そして、そこにオボーが見えた。

 このオボーは目には入っていたのかも知れないが、認識していなかった。モンゴルの人々はこのオボーが好きだ。というより、これに旅の無事を祈る。その儀式としては石を3個拾い、三回オボーのまわりを回る。一回まわるたびに1個づつオボーに供えて祈る。大昔からの習俗らしい。だから,かつてチンギスハーンの大軍団も西に赴くときは、こうしたオボーを築き祈ったことだろう。

 さて下の写真はそのオボーだ。こりゃあ小型だった!山の上だからなァ、こんなもんか。人物は左側がJ氏、右側がB氏である。彼らの服装は7月半ばとはいえ,上には厚地の長袖を着ている。

時々オボー、時々祈り。 (K.M)

(645) モンゴル日記(360)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて108 】

北モンゴル最奥部を訪ねて108

 この城砦は標高においても低くはないだろう。参考までにB氏にたずねると、1,500m以上はあるだろうとのこと。それを裏付けるかのように、ときどき雲がそばを流れて行く。空は快晴ではなかったが、気持ちのよい爽やかな日だった。

 上の写真は北西側で、この先数十メートルほど進むと絶壁の上端に出るようだった。だから眺めは良いのだが、足もとが危ない。筆者は最近こうした場所には行かない。正直のところ足がすくむからだ。ちゃんとした展望台とか、手すりのついた高所なら何とか挑む。しかし若い頃はそれほどでもなかったが、最近はこうした安全施設のないポイントにはぜったい近寄らない。

 ところで辺りをよく見ると、こちら北側(写真右側)にも低い岩積みが築かれていた。こちら側には小段があるようだから、そちらから万が一,侵入者があった場合に備え,こうしたのだろうか。この城砦、どうやら中途半端ではないようだ。

 下の写真では手前の低い山々に針葉樹の森林が広がっている。そして,その奥にはやはりロシア国境沿いの山々が連なっている。これらの山並みはキャンプあたりからでは望めない。ここからはこうした貴重な眺めも得ることができた。B氏の説明では、左手の尖った頂上の山がこの辺の最高峰ではないかという。秀麗な山容で、ズーッと見ていても厭きなかった。

ときどき雲行き、ときどき絶景。 (K.M)

(644) モンゴル日記(359)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて107 】

北モンゴル最奥部を訪ねて107

 写真上は前号で述べた、集積された岩石群の足もとで撮影したものだ。やはり自然の力では、こんな積み上げが形成されるはずはないだろう。斜面の長さは3~6mくらいはあろうか。この大量の岩石はやはりどこかから運んできて、ここに集積したものだろう。さしずめ,これは”城壁”とでも言うべきか。

 この”城壁”を敵が下から登ろうと試みるのは、至難の技だったろう。仮にそうしようとしたら、モンゴル側がその敵に向かって上から岩を落としたり、弓矢を射ったりするだろうから。けれど,そうしなくても実際この人工斜面には登りつけないと思う。なぜなら日本の城郭の石積みと違い、岩石と岩石がきちっと組まれていないのだ。ご覧のようにただ重ねているだけみたいで、上に乗っかるとグラつく岩もあった。ちょっと危ないのだ。

 次に下の写真である。上の写真の”城壁”を登りきると、こうした大広間のような空間が広がっていた。ゆるい傾斜はついているが、ここなら何百人かの兵士や武器は集められるだろう。この点から見ても、ここは天然の空間ではないと確信した。

 ここはやはり城砦だった可能性が高い。B氏が語ってくれた話が信じられる。つまり,17世紀にチュン・グンジャオ将軍がモンゴル軍を率いて、満州軍相手に奮闘した戦跡なのだと。(それについては(597)号で前述)

 たまに歴史感覚、たまに将軍気分。 (K.M)

(643) モンゴル日記(358)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて106 】

北モンゴル最奥部を訪ねて106

 乗馬体験の翌日、今度はB氏から山行きに誘われた。正確に言うと,上の写真のこの崖の山に挑戦するというのだ。もちろんロッククライミングで挑むわけではない。尾根のある方からアプローチするという。この断崖絶壁は周囲から眺めると直立していて、 取りつく島などなさそうに見える。けれど,南側には尾根が続いていることが分かる。それで前日に二人で踏査に行ったらしい。

 B氏によれば、どうやら南側からは簡単にアプローチができるというのだ。クルマでかなり近くまで行けるらしい。それにクルマから降りて歩いても、崖の頂上あたりまでは何分も掛からないという。なかなかよく下調べをしたようだ。

 それでJ氏のレクサスに乗せてもらい、朝キャンプを出発する。レクサスは岩混じりの上り斜面をズンズン進んだ。で,まもなく南尾根に取りついた。そうすると,そこからこの崖の内側がけっこう見渡せるのだ。写真下はクルマを降りて北側に向かって歩き出した二人だ。そして,先を行く彼らの行く手には石積みのような人工物?が広がっていた!こりゃ驚いた。

 この大規模な岩石の集積を目にし、やはり以前,博識のB氏が語ったように、これは城砦なのだろうか?・・・うーん。じっくり見ていると,そう思えてくる。こんな不自然な岩石の集積は、人の手が加わらないと形づくれないだろうから。

 日々小感動、日々チョイ驚き。 (K.M)

(642) モンゴル日記(357)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて105 】

北モンゴル最奥部を訪ねて105

 この日は暑かった。日中は間違いなく30℃は越していただろう。ただ湿度が低いので不快感はない。しかし,日差しはけっこう強い。時刻はもう夕方6時なのだが。

 さて洗濯後の散歩で、シシケッド川の岸辺を歩いていた。川風が気持ちよく感じられた。と,上流に向かっていくと、川で用事を足している家族らしき人たちに出くわした。たぶん筆者たちのツーリストキャンプの隣組?の一家だろう。彼らは夏場だけだろうが、ゲルを設営して遊牧生活を送っている。

 その父親と息子らしき男の子は、水着をはいて川の中に入っていた。また母親と娘らしい女の子は、岸辺で何か作業をしていたように見えた。母親の後ろにある白い容器はポリタンクのようだった。煮沸して飲料水としてでも使うのだろうか。

 散歩を終え、キャンプに戻る。そうしたら,親友B氏が「シャチョー,胃腸薬持ってませんか?」。頑健そのものの大男が、か細い声で問うてきた。それで,たまたま日本から持って来ていた漢方の胃腸薬を渡す。どうせ飲み過ぎだろう。幸い,翌朝には彼はシャキッとしていた。治ったようだった。

 さて下の写真。時刻は午後8時ころ。キャンプの小屋の陰で、ご覧のように黒い犬が横になっていた。彼は暑さには弱いらしく、筆者がそばに寄ってもほとんど反応を示さなかった。

 この後,いっとき強い風雨に見舞われた。日々夏日、でも日々変化。 (K.M)

(641) モンゴル日記(356)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて104 】

北モンゴル最奥部を訪ねて104

 この日,11時過ぎから前述した乗馬がスタート。そして帰還は15時ころ。緊張つづきで、尻の痛みも発生したが、無事に戻ってこれた。それですぐ,皆で遅い昼食となった。さっそく,飲んだり食ったり喋ったりが始まる。そこにはもちろん乗馬の若者たちも加わる。賑やかになった。だけど,筆者は胃袋に入れるものを入れたら、別作業を開始した。洗濯である。

 缶ビール片手に、共用スペースにある洗濯機の前にいく。もうだいぶ洗濯物が溜まっていた。洗剤は前もってB氏からもらっていたし、洗濯機は本体だけだったので何とか操作はできた。ここでは絞る装置とか乾燥機はいらない。とにかく洗った後、数時間も外に置いておけば乾く。

 こうした洗濯や部屋での書類整理にケリを付けてから、散歩に出る。そして,シシケッド川の岸辺でこのトンボ?を発見した。薄青い体に黒の横じまが入り、なかなか美しい。しかしひょっとしたら,これはウスバカゲロウの仲間かも知れない。

 そのうち盛り上がっている向こうの宴から、「シャチョー,川に落ちないでね」。日本語だから、B氏だろう。

 さて下の写真である。これも散歩のときに草原で見つけた。例の飛行バッタの仲間だ。体色は地味だが独特で、コイツはちょっと体が大きかった。少し酔っていたので、近づいて押さえようと試みたら案の定飛び去った。

 日々のん兵衛、たまに洗濯人。 (K.M)

(640) モンゴル日記(355)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて103 】

 いわば難所を越えたので、再び筆者は馬に乗った(乗せられた?)。上の写真の右側には、さっき通って来た両側の絶壁が覗いている。写真の二人はM嬢とJ君だ。しばし言葉を交わしていたようだ。その彼女も手綱さばきは達者のように見えた。それが間違いないことは、この後すぐ分かった。

 ところで結局、筆者の歩きは10分間くらいだったろうか。歩くのは岩道でもまったく苦にならない。むしろ,これで今日も万歩計の数字が1万以上には達するだろう。

 岩が混じった緩やかな下り坂は、やがてお馴染みの広大な草原に変わってきた。そして,その彼方には”わがキャンプ”もやっと見えてきた。「おおっ」、ホッとした。下の写真がそうである。

 そのうちにJ君以外の男の子たちは、みな馬を走らせた。意外にもそれに続けとばかり、目の前のM嬢もその白馬を疾駆させるではないか。この写真撮影のすぐ後だ。結局,置いていかれたのはJ君と筆者だけだった。トレーナーにつき従ってきた犬までが去って行った。

 平地になったが、馬を走らせることなど怖くてとてもできない。そんな事をしたら,すぐ落馬するだろうから、ポコポコ歩くしかなかった。でもJ君がつき合ってくれた。ひょっとして彼はモンゴル人とはいえ、乗馬は得意ではないのかも知れない。だけど、そんな事は決して訊かなかった。

やっと我が家、やっと安心。 (K.M)