(659) モンゴル日記(374)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて122 】

 水面の広がる雄大な景観が待っていた。写真はシシケッド川とテングス川の合流地点だ。そこの川幅は広く、30m以上はありそうに思えた。それに水量も豊富で、りっぱな「大河」だった。そして,おとなしいが、涼しげな水音も聞こえてくる。写真はシシケッド河畔からのものだ。

 結局ここにもB氏から送ってもらった。彼は筆者を降ろすと、キャンプに戻っていった。「帰りはシシケッド川沿いに上れば大丈夫。一人でも迷わずに戻ることができますよ、シャチョー」と言われ、単独行動となった。

 このダルハッド・バレーに来てから、いずれはこの二つの川の合流地点を見たいと考えていた。昔から川の合流場所とか、川と湖が接する場所とかに興味を抱いてきたからだ。しかし結局ここにはこの日,つまり帰る日の前日の午後遅くに訪ねることになった。でも,やはり来て良かった。これら二つの川が交わるこの景観は、今回の旅で印象的なひとつとなったからだ。

 さて写真下はテングス川方面の景観だ。川沿いの山岳風景はこちらが優れていた。丘陵と山々が三列に並んで奥行きをつくり、いちばん後にはロシアとの国境がある峻険な山々が聳えていた。また,テングス川はシシケッド川に比べると、川幅は狭いが流れは速い。けれど水は清い。釣り師たちも自然とこちらに集まった。

 魚座のせいか、水のある風景が好きだ。日々水ぎわ、日々水面。 (K.M)

(657) モンゴル日記(372)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて120 】

 この岩壁は例の「城砦」の北側だ。上の写真はその全体の姿。このように垂直に近い角度で切り立っている。下の写真は、その絶壁上部の節理部分を拡大したものだ。そしてこれが見納めとなった。

 ボートでシシケッド川左岸に渡り、戻って来てからは皆としばしティータイム。そのうちB氏から、今度はあの城砦の北側を流れているテングス川の方に行ってみないか、と声を掛けられた。そんなにあれこれ誘わなくてもいいのに・・・ああ,そうだった、明日ここを発ち、ウランバートルに戻る段取りが決まったのだ。それで、筆者を色んなことに誘ってくれるのか・・・。そう考えると,感謝。

 それでB氏のXトレイルに乗り、ここまでやって来た。それにしても,この日は何台ものクルマにすれ違っている。今までにはないことだ。彼の話によれば、ナーダム(モンゴル夏祭り=休暇)に入ったので、この辺まで足を延ばす人たちが増えてきたとのこと。それを裏付けるように、すでに川沿いにはテントを張っているグループや、バーベキューを囲む人たちがいた。

 ところで下の写真の方である。柱状節理が斜めになってはいるが、これがなかなか美しいのだ。そして,こうした風景を見ていると、この城砦を下りて来るときに踏み越えてきた岩の凸凹は、やはり節理が地上に現れ出たものだったように思う。

 撤収日の前日、やる事多し、見るもの多し。 (K.M)

(650) モンゴル日記(365)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて113 】

 城砦から戻って来て、昼食をとった。そのときB氏から、次のような提案があった。つまり,このキャンプの管理人からボートを借りる約束をしてある。それで,それに乗ってシシケッド川の向こう岸に行きましょう?というのだ。

 その提案に対して、若者たちは答えなかった。乗馬には全員がつき合ったのに。そのうえ他の年配の人たちからも声が上がらなかった。しかし,借りたボートを返すわけにはいかない。結局、筆者といわば年長の若者? J君が乗ることになった。それはまるで”志願兵”のようだった。

 やがて管理人が折りたたみボートを岸辺に運んで来て、目の前でそれを膨らました。漕ぎ手はふたり、その管理人と結局B氏だった。やがて”志願兵”二人がそのボートに乗り込み、離岸した。

 もちろん浮き輪などは備えられていない。まァ,筆者は中学時代には水泳部に所属していたから、泳ぎに自信がないわけではない。それにこのシシケッド川は深そうではあったが、流れが速くないようだった。パートナーのJ君は泳ぎの方はどうなのだろうか?そんなことが頭をかすめた。

 それはともかく,川の中ほどまで来てみると、写真の上・下のように沈水植物がびっしり生えていた。(失礼!写真がいずれもピンボケで・・・水際の撮影はチト難しい。)繁茂していたのは全部ヒルムシロ属の植物と思われた。

 はじめて渡河、はじめて対岸。 (K.M)

(649) モンゴル日記(364)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて112 】

 さらば城砦!筆者たち3人は足もとに注意を払いながら下った。上の写真は岩が積まれた”石垣”を下りていく場面だ。山の下りは、上りよりは気を使わなくてはいけない。慎重さが求められる。筆者も若い頃、新潟地方の山々をけっこう登った。だから,この原則は知っている。

 ところで右側の人物はB氏で、さすがの彼も一歩一歩ゆっくりと下りて行った。何せ彼は身長190㎝以上、体重の方も楽に100kg以上はあるらしい。が,他人に尋ねられると100kg以下と答えるようだが。一方,もうひとりの相棒J氏はすでにこの”石垣”を過ぎていた。こんなとき J氏はいつも早い。それに対して,筆者はいつも遅い。写真をあちこちで撮るからだ。ただ,この城砦ではその多くが風景となった。

 写真下は”石垣”を降りてから、振り返って見た城砦の風景である。しばらく眺めていたら一瞬,奇妙な感覚に襲われた・・・どこからか,兵士たちのどよめきが聞こえたような気がしたのだ!ン?!

 そうして,少しセンチメンタルな気持ちにも陥った・・・再びこの地に来れないかもなァ。この城砦もまた訪れることもないだろうなァ。さらには・・・どうして今おれはここにいるんだろう?  と,この国でたまに抱く例の不思議な気持ちにとらわれていた。と,「おいてくよ、シャチョー!」、大きな声が聞こえた。

ときどき錯覚、ときどき思索。 (K.M)

(648) モンゴル日記(363)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて111 】

 尾根の端に止めてきたクルマのところに戻ろう。それで3人がこの「城砦」を下りはじめた。写真上はその時に通った、整然とした岩の列である。これは人工物ではなかろう。きっと自然のもので、節理が地表に現れたものだろうか?

 節理は立っているものがふつうと思っていた。日本ならだいたい崖をなしているような所が多い。けれど、ここでは寝ているのだ。ちょっと不思議に感じた。おそらく人類が出現しないはるか大昔、この北モンゴルの地殻では大規模な変動が起きたのだろう。それはともかく、ここは歩きにくかった。

 下の写真は、下山しながら南方面を望んだ風景である。山裾を通ってくるシシケッド川の上流の方が見渡せた。こうして眺めていると、川幅が広い箇所もあるし,水量も豊かなことが分かる。やはり,なかなかの大河なのだ。ところでこの時点では、午後からこのシシケッド川を横切ることになろうとは全く予想もしていなかった。

 だいたいここでは考えてもいないこと,予想外のことをいろいろ体験させてもらっている。乗馬といい、この城砦上りなども想定外のこと。B氏を中心にして、日本からの旅人を退屈させまいとして様々なプランを組んでくれていた。その気持ちはありがたかった。午後からのシシケッド川横断-対岸上陸の計画もそうだった。ボートは既に手配していたようだった。

 日々アドベンチャー、日々発見。 (K.M)

(646) モンゴル日記(361)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて109 】

北モンゴル最奥部を訪ねて109

 ここでは東側以外、あっちもこっちも見晴らしがよかった。そして驚いたことに、こんな場所にもオボーがあった!つまり人々がやって来ている証左だ。

 筆者はひとりで城砦の中心部をじっくり見てまわった。その後は周辺の植物探訪を始める。けれど,めぼしい植物には出くわさなかった。やがて尾根を進み、だんだん下りていく格好になった。そのとき上の方から、「シャチョー、まだ下りちゃダメだよ」。B氏の大声が聞こえた。

 ふり返ると、遠くにB氏とJ氏がいた。三方を断崖に囲まれたこの山の南東側に、こうした小高い地点があったのだ。ひょっとしたら,これが頂上というべきかも知れない。そして、そこにオボーが見えた。

 このオボーは目には入っていたのかも知れないが、認識していなかった。モンゴルの人々はこのオボーが好きだ。というより、これに旅の無事を祈る。その儀式としては石を3個拾い、三回オボーのまわりを回る。一回まわるたびに1個づつオボーに供えて祈る。大昔からの習俗らしい。だから,かつてチンギスハーンの大軍団も西に赴くときは、こうしたオボーを築き祈ったことだろう。

 さて下の写真はそのオボーだ。こりゃあ小型だった!山の上だからなァ、こんなもんか。人物は左側がJ氏、右側がB氏である。彼らの服装は7月半ばとはいえ,上には厚地の長袖を着ている。

時々オボー、時々祈り。 (K.M)

(645) モンゴル日記(360)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて108 】

北モンゴル最奥部を訪ねて108

 この城砦は標高においても低くはないだろう。参考までにB氏にたずねると、1,500m以上はあるだろうとのこと。それを裏付けるかのように、ときどき雲がそばを流れて行く。空は快晴ではなかったが、気持ちのよい爽やかな日だった。

 上の写真は北西側で、この先数十メートルほど進むと絶壁の上端に出るようだった。だから眺めは良いのだが、足もとが危ない。筆者は最近こうした場所には行かない。正直のところ足がすくむからだ。ちゃんとした展望台とか、手すりのついた高所なら何とか挑む。しかし若い頃はそれほどでもなかったが、最近はこうした安全施設のないポイントにはぜったい近寄らない。

 ところで辺りをよく見ると、こちら北側(写真右側)にも低い岩積みが築かれていた。こちら側には小段があるようだから、そちらから万が一,侵入者があった場合に備え,こうしたのだろうか。この城砦、どうやら中途半端ではないようだ。

 下の写真では手前の低い山々に針葉樹の森林が広がっている。そして,その奥にはやはりロシア国境沿いの山々が連なっている。これらの山並みはキャンプあたりからでは望めない。ここからはこうした貴重な眺めも得ることができた。B氏の説明では、左手の尖った頂上の山がこの辺の最高峰ではないかという。秀麗な山容で、ズーッと見ていても厭きなかった。

ときどき雲行き、ときどき絶景。 (K.M)

(644) モンゴル日記(359)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて107 】

北モンゴル最奥部を訪ねて107

 写真上は前号で述べた、集積された岩石群の足もとで撮影したものだ。やはり自然の力では、こんな積み上げが形成されるはずはないだろう。斜面の長さは3~6mくらいはあろうか。この大量の岩石はやはりどこかから運んできて、ここに集積したものだろう。さしずめ,これは”城壁”とでも言うべきか。

 この”城壁”を敵が下から登ろうと試みるのは、至難の技だったろう。仮にそうしようとしたら、モンゴル側がその敵に向かって上から岩を落としたり、弓矢を射ったりするだろうから。けれど,そうしなくても実際この人工斜面には登りつけないと思う。なぜなら日本の城郭の石積みと違い、岩石と岩石がきちっと組まれていないのだ。ご覧のようにただ重ねているだけみたいで、上に乗っかるとグラつく岩もあった。ちょっと危ないのだ。

 次に下の写真である。上の写真の”城壁”を登りきると、こうした大広間のような空間が広がっていた。ゆるい傾斜はついているが、ここなら何百人かの兵士や武器は集められるだろう。この点から見ても、ここは天然の空間ではないと確信した。

 ここはやはり城砦だった可能性が高い。B氏が語ってくれた話が信じられる。つまり,17世紀にチュン・グンジャオ将軍がモンゴル軍を率いて、満州軍相手に奮闘した戦跡なのだと。(それについては(597)号で前述)

 たまに歴史感覚、たまに将軍気分。 (K.M)

(643) モンゴル日記(358)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて106 】

北モンゴル最奥部を訪ねて106

 乗馬体験の翌日、今度はB氏から山行きに誘われた。正確に言うと,上の写真のこの崖の山に挑戦するというのだ。もちろんロッククライミングで挑むわけではない。尾根のある方からアプローチするという。この断崖絶壁は周囲から眺めると直立していて、 取りつく島などなさそうに見える。けれど,南側には尾根が続いていることが分かる。それで前日に二人で踏査に行ったらしい。

 B氏によれば、どうやら南側からは簡単にアプローチができるというのだ。クルマでかなり近くまで行けるらしい。それにクルマから降りて歩いても、崖の頂上あたりまでは何分も掛からないという。なかなかよく下調べをしたようだ。

 それでJ氏のレクサスに乗せてもらい、朝キャンプを出発する。レクサスは岩混じりの上り斜面をズンズン進んだ。で,まもなく南尾根に取りついた。そうすると,そこからこの崖の内側がけっこう見渡せるのだ。写真下はクルマを降りて北側に向かって歩き出した二人だ。そして,先を行く彼らの行く手には石積みのような人工物?が広がっていた!こりゃ驚いた。

 この大規模な岩石の集積を目にし、やはり以前,博識のB氏が語ったように、これは城砦なのだろうか?・・・うーん。じっくり見ていると,そう思えてくる。こんな不自然な岩石の集積は、人の手が加わらないと形づくれないだろうから。

 日々小感動、日々チョイ驚き。 (K.M)

(624) モンゴル日記(339)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて87 】

北モンゴル最奥部を訪ねて87

北モンゴル最奥部を訪ねて87

 上の写真は前号で書いた断崖の南東側から写した全景である。この写真でも分かる通り、やはり節理の岩崩れは起きているようだ。けれど全面的な崩壊にまで至らないのは、降雨量の少なさが要因かもしれない。この国の降雨量は日本の3分の1,4分の1くらい。長雨や集中豪雨などはめったにない。8年前からモンゴルに通っており、夏場には5,6回滞在しているが、一日じゅう降り続ける”長雨”などに会ったことはない。それに特筆すべきことだが、地震もない国なのだ。

 さて下の写真は、断崖手前の小段からの眺望だ。中ほどにはテングス川の水面ものぞく。やがてこの先で左側から流れ込んでくるシシケッド川と合流し、大河に変貌する。この写真の左手奥で木々が連なっているルートは、その一本になった河の川筋を示している。

 さて右側のテングス川に沿った山側の小段は、ひょっとしたら河岸段丘だろうか。あちこちにこの小段は認められるのだ。けれど,シシケッド川の方にはこうした地形は確認できなかった。

 一方,奥にはロシアとの国境が引かれたあの高山がドデンと座っている。この山は様々な表情を見せてくれた。この風景はまさに山水で、ズーッと眺めていても厭きなかった。この辺りは山と山に挟まれた,いわば谷間の地で、モンゴルではダルハッド・バレーと呼ばれ、熱心なファンがいるらしい。

 日々山紫、日々水明。 (K.M)