(236) 月夜の虫

満月と虫

満月と虫

 この夜の月は満月の直前だった。下の写真はこの月を撮影した時刻に、たまたま事務所の通用口にいた虫である。体長2㎝あまり、図鑑で調べたが、ハタケノウマオイだろうか?いずれにしても、キリギリス科の虫だと思う。おそらく昆虫も月から何らかの影響を受けてはいるのだろう。

 彼は通用口のガラス戸にじーっと張り付いていた。観察している間、動きもしなかったし、鳴きもしなかった。ボールペンでちょっと突いててみた。しかし、迷惑そうにわずかに位置をずらすだけで、飛び去らなかった。真偽のほどは定かでないが、インターネットで調べていたら、満月の夜には虫が灯りの下に集まるという話も出ていた。その晩はたまたま灯りを消さずにいたから、まァ彼もそうかも知れない。

 そのうち、彼の呟きが聞こえてきた。「満月の夜はいろいろ考えるのさ。地球のこと、昆虫類の未来のこと、家族のこと・・・。ところで、あんたら日本人は、俺たちへの興味を失わないでほしいネ。何せ日本人は、昔から俺たちに関心を寄せる数少ない民族なんだから。だいたい世界中では、俺たちの鳴き声を雑音として捉える人たちが多いらしいじゃないの。ところが、あんたらは古くから俺たちの鳴き声を楽しんできたし、俳句なんかで俺たちの仲間のことをたくさん詠んできた。そうした独特の文化や伝統があるから、期待してんのさ。こうした俺たちの声を虫しないでくれよ。・・・ああ、やっぱり満月の夜は不思議だけど、おしゃべりになるんだ!」

人間には、満月の夜でもないのによく喋る人が少なくない。日々好日、日々感謝。 (E.O)

(229) 金色に輝く月

雲かかる月

 先月下旬にあらわれた上弦の月。それは幽玄な雰囲気を持っていた。夜の9時半頃だったろう。その独特の色調と趣が、写真にも少しは反映されていたらよいが・・・。

 輪郭はくっきりとしていなかったが、その夜の月は金色の光を放っていた。背景にある夜空も、黒に近い紺色を帯び、果てしない広がりと深みを見せていた。月だけではなく、秋の夜の天体はほかの季節とは異なる情趣をもたらす。・・・ときどき こま切れの雲が流れていく。辺りからはコオロギの鳴き声だけしか聞こえてこない。

 生来、霊感といったものにはまったく縁のない筆者である。しかし この月を凝視しはじめたら、しだいに宇宙的ともいうような感覚が満ちてきた。宇宙との一体感、宇宙の中での自分の微小な存在、時間と空間のとてつもない悠久さ・・・こうしたことに思い至る。鳴きつづけるコオロギさえも宇宙の造形物である・・・。しばし神秘的というか哲学的というか、不思議な時間の中に身を置いた。

 そして 悟った、ただし酒が入っていたが。つまり、自分たちの精神世界という小宇宙の中にも、月のような存在がある。その時、自分の本心は地球つまり“地(ぢ)”で、月はその地球のそばでそれを見つめる客観的な眼にあたる。それで“付き”である。精神状況というのはこの地球である本心と、月である客観的な眼との関係やバランスの反映ではなかろうか。・・・どうやら妙な気分になってきた。やはり月は長く眺めるものではない。

上弦の月を観賞するには、上限を超える酒量はいけなかった。 時々飲酒、時々感謝 ではいけない・・・。

(210) 初夏のモンゴル⑭

モンキャンプ地名月

【月とトール川と・・・】

 満月に近い月が夜空に浮かび、それを映した川面が小さく波立ちながら、ほのかに白く光っていた。油絵のような風景だ った。詩心を持ち合わせていれば・・・と、また自らの才能の乏しさを悔やんだ。

 川音が聞こえ、幻想的な雰囲気すら漂っていた。ウオッカが少しまわり始めたが 、まだ足もとは危なくなかった。そのうち妄想が始まった・・・かぐや姫はきっとこんな妖しいほどの月夜に帰っ て行ったのだろう。それにしても、月への帰り土産は何にしたのだろう。コシヒカリだったろうか。・・・小学校 の時、お世話になったカワグチ先生は今もご健在だろうか。やはり独身を通されたのだろうか。・・・頭の中を詩心とは全くかけ離れた、とんでもない想像と記憶が駆け巡る。

 そんな時「カタオカサン!」と叫ぶ声が聞こえた。D社長である。発音しやすいのか、最近は筆者の名前をミスタ ーカタオカではなく、こう呼んでくれる。さて何の用事だろう?また、双眼鏡を貸してくれるのかな。実はD社長、 旅先にはよく双眼鏡を持ってくる。それで月や星を眺めるのが好きなのだ。自分で覗いた後は、たいてい筆者にその双眼鏡を貸してくれる。今回もその通りだった。

  しだいに星星があちこちで輝いてきた。一番星、二番星と数えていったが、十番星くらいでやめた。ところで、よくモンゴルでは星空が美しいと言われる。けれど、澄んだ空をもつこの国では月の姿もそれに劣らず美しい。

眠気がさしてきた。いびき魔のB氏より早く、テントで寝つかねば。日々・・・省略。(E.O)

(209) 初夏のモンゴル⑬

初夏のモンゴル

【月とテントと・・・】

 ウランバートルから4~5時間は車を走らせたろうか。あのゲル運搬隊に出会ったり、コオニユリの咲く 森で休憩をとったり、目的地の手前で試し釣りをしたりと、いろいろ道草をしながら来た。けれど、 それほど暗くならないうちにトール川河畔の目的地に着いた。

 今回のメンバーは、おなじみの親友で通訳のB氏,D社長,運転から調理までこなすMさん,若手のE君そして筆者の5人。皆はテント設営地点が決まると、手際よくそれを組み立て、晩飯の準備も始めた。筆者の出る幕はなかった。少し気温が下がってきたが、雨は降ってこない。また、強い風も吹いていない。その上どういう訳か、 蚊が寄って来ないのだ。だから 辺りを散策しながら、夜空に浮かぶ月をしばし観賞していた。

 ところでウランバートルを 出発するとき、いろいろな資材や飲食物を車に積み込んだのは見た。ただ、キャンプには必須の飲み水らしき液体がその中に なかった。調達はどうするのだろう?とちょっと気になっていたが、合点がいった。すぐ側の清流トール川を 利用するのだ。まァ、ウランバートルの水道の供給源だから問題ないか、と妙な納得をした。やがて食事の用意(飲む準備)ができた。

 すると、当たり前のようにウオッカが登場し、グラスに注がれ皆に回された。用意された今夜の酒の肴は、調理したハ ムとポテトだった。また、味覚以外の肴ではまず月があり、心地よい夜風があった。それに、座を沸かせるD社長の小話も加わった。

贅沢な時間を過ごして、今日も 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(196) 二重の三日月、四海を照らす

乱視の見た三日月

 あなたの目がおかしいんじゃないですよ。乱視の人間が月を眺めると、こんな風に見えるという写真です。目が疲れていると、これが三重や四重に見える場合もあります。

 先日シャバ中を照らすような、神々しい三日月が浮かんでいました。それで、カメラを持ち出してパチリッ。まともに撮れたものもあったのですが、三脚を用いなかったので、こうした一枚も生れました。ただ これはこれで味があります。

 筆者は近視を伴う乱視ですが、二十歳前後から既にそうでした。その頃はそんなに悪くはなかったのですが、クルマの夜の運転の際に前方が少し見えにくいと、しだいに感じるようになってきました。そこで免許更新時の視力検査ではOKでしたが、近視・乱視用のメガネを作り、夜の運転ではそれを掛けてきました。

 けれど、しだいに度が進むのでしょうか、その後メガネを作り直しました。近ごろはそのメガネも合わなくなってきたようです。けれど、行きつけの眼鏡店のお話では、仮にまた作り直したとしてもピッタシという感覚にはならないかもしれない、という事でした。ですので、もうこのままで使い続けようと考えています。

 ところで、乱視でも悪い事ばかりではありません。たとえば飲み屋さんに行くと、女性たちの姿や顔立ちの細部が見えにくく、実物以上に(?)美しく見える場合が少なくないのです。また 色々な醜悪なモノが見えにくいのです。この点でも好都合の場合が多いかもしれません。

 実は昨夜モンゴルから戻って来ました。もちろんお月様の写真も撮影してきました。無事帰国、諸事感謝。 (E.O)

(155) 朧月と屋根雪

朧月と屋根雪

 朧月の下に薄っすらと直線が見える。それは出荷場の屋根に積もった雪のラインである。時刻は明け方5時過ぎ。こうした月を寒月と言うのだろうか。外はかなり冷え込んでいたものの、なかなか風情に富んだ景観だった。そりゃあそうだ、雪と月の組み合わせだもの。

 ただ、この印象的な情景も5分と続かない。不定形の雲が月を掠めては去り、しだいに西の方から雪雲が覆ってきた。そして、とうとう月を隠してしまった。一年に何度も見られない風雅な夜明けの景色は、あっという間に消失してしまった。

 ところで このブログ連載を始めてから、月については以前よりずっと意識するようになっている。また 観月の効用についてもこれまで何度か書いてきたが、月には何らかのパワーがある!とますますそう思い込んでいる。何と言っても心が静まり、気持ちが落ち着いてくる。今回気付いたことだが、寒中の有明月というのも悪くない。この月もそうだったし、ウランバートルで眺めた零下30℃の中の月もすこぶる魅力的だった。

 ただし以前にもご注意したように、美しいからといって月を長く深く見入ると、しまいに魅入られてしまう。あまりにも妖しい月は人を引き込み、連れ去る引力を備えている。この点は『竹取物語』を引っ張り出すまでもない。

 なお、花の品種名で「雪月~」と名付けられたものは結構あるのではないかと思い、ちょっと調べてみた。けれど意外に少なく、ウメやツバキに見い出したくらいだった。

寒月は気持ちが鎮まり暖まり・・・。月があるから 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(143) 1月のウランバートルで ②

1月のウランバートル2

 真冬のモンゴルで眺める有明の空も、なかなか味わい深いものだ。月は欠け始めていた下弦の月だった。撮影時刻は現地時間で朝の8時10分頃。まだ外は薄暗かった。写真はカメラをオートにセットしたので、自動的に鮮明な映像が撮れた。

 ただ寒々とした月と言うより、凍り付いて落ちてきそうな月だった。おそらく-30℃前後に下がっていただろう。だから、外で10分と眺めていられなかった。

 寒さ対策で、下着のシャツもズボン下も長めのタイプを身につけ、厚地のコーデュロイ・シャツにセーターを着込んだ。ズボンも厚地のコーデュロイものを穿いていた。その上にベンチコートで身を包んだ。そして、コートのフードをすっぽり被っていた。耳まで隠れる帽子のようなものが無いと、外には居られない。靴は雪用ブーツを履いていた。しかし、頬は痛いような冷気に触れるし、ブーツにもコートにも覆われない脛には厳しい寒さがひしひしと伝わって来る。

 ウランバートルの寒さは新潟の寒さと質が違うように思う。新潟の寒さは“湿ってはいるが温かみのある軟質の寒さ”、それに対してウランバートルのそれは“乾いて厳しい硬質の寒さ”である。

 今回のホテルは写真右手の建物で、以前にも宿泊したことがある。部屋はラジエーターよる温湯暖房で、たいてい+24,25℃くらいに保たれていた。だから、寒いとは全く感じない。しかし、一旦外に出ると、それより40,50℃低い世界である。この気温の落差に、まず戸惑った。

異国の酷寒の地でも 日々好日、日々感謝。 (E.O) 

(116) 昼の月と白樺-北モンゴルにて⑤

昼の月と白樺-北モンゴルにて

 手前の白樺、その背後の褐色の稜線、その上の広く青い大空。そこにぽっかりと、うっすらと見える月。色彩も構図も悪くない、絵画的な景観である。

 モンゴルを6回も訪問していると、真昼の月も何度か眺めている。場所はウランバートルだったり、テレルジだったり・・・。けれど、北モンゴルの空に浮かぶこの昼の月も悪くない。月齢でいうと、19日くらいだった。

 前夜、ここにたどり着くまで森の中の林道を走って来た。林道といっても凸凹だらけで、しかも その大きさと深さがひどかった。また、途中二ヶ所では小川に架かる橋が流されていた。けれども、そうした悪路も文字通り乗り越えて来た。そんな時、視界が多少でも広がる場所ではきれいな月を拝めた。進路の左・右 やや上の方に、皓々とした月を見ることができた。

 その月もこうして昼間眺めると、夜会った麗人に昼間すっぴん顔で出くわしたような感じがする。けれど、麗人の場合はその夜・昼の落差が大きいと、複雑な思いを抱く。しかし、月ならば夜・昼いずれの姿も月なので、そうは思わない。

 ところで、実はD社長も月を眺めるのが好きなのだ。常に倍率の高い小型の双眼鏡を持ち歩いているようだ。今回も持って来た。それで前夜、彼は筆者にもその双眼鏡で月を覗くことを勧めた。そんなことが去年もあった。その時に「月は好きなのか?」と彼に尋ねた。すると彼は、「勿論だ。月を見ていると元気になる」と言っていた。なるほど・・・やはりパワーをもらうのだろうか。

異国で見る月は、昼間でもどこか違って 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(100) “素月(すづき)” 

中秋の名月

 凛とした月だった。今月12日の中秋の名月である。時刻は午後10時。 

 幸い今年の中秋の名月は、当地でもくっきりと姿を現した。それに、この写真を撮ったのは ふだん使っているデジカメではない。先日インターネット通販で買い求めたカメラである。30倍ズームレンズが装着されており、何とか まともに撮れた。

 けれど、今回の写真は大きく拡大された丸い月だけである。色気も飾りも、遊びもない写真になってしまった。それは慣れないカメラで三脚を用いずに、うまく拡大して撮ろうと必死だったのだ。他の事を考える余裕が無かった。だから、具の入らない素ウドンならぬ「素月(すづき)」になったのである。むら雲も写ってなければ、ススキも入っていない。アングルも平凡だった。

 しかし この「素月」だからこそ、たまには“月を哲学的に捉える”ことには良いのかもしれない。・・・目の前に月の存在があり、月を通して宇宙の深みや不可思議を感じ、地球と我々の存在を意識する。・・・

 NHKのEテレで専門家が発言していた。つまり、月が地球の周りを現在のように回転しているからこそ、地球の自転が安定している。それゆえ人類が今のように生存でき、穏やかに暮らせるのだ、と。

 ところで、パソコンの画面に映る月に見入るのも、現代的で面白いと感じる。そして、画面上の月でもジーッと凝視していると、しだいに引き込まれるような気がしてくる。どうやら、月には精神的引力もあるようだ。この国最古の物語『竹取物語』の作者も、そのことには気付いていたのかも知れない。

お月様からパワーをもらい 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(91) モンゴル再訪22-モンゴルの月

モンゴル再訪22-モンゴルの月

 写真の上の方にある丸っこい光が月である。下に幾つか見える点のような光は、各ゲルの入口に設置された外灯である。目を凝らしてよーく見ると、中央下あたり、闇の中にうっすらと白いゲルが認められる。

 夜中の0時。枕元に置いた携帯電話のアラームが耳もとで鳴った。パカッと目が覚めた。向かい側のベッドに寝ていたB氏はもう起きて、外にいるようだ。

 寝る前に火を点けておいたストーブが、赤々と燃えている。このストーブと、B氏から借りたコートを着込んで眠りについたのだが、これでちょうど良いくらいだった。やはり、気温がだいぶ下がっているようだ。

 筆者も外に出てみた。出の遅かった月は満月ではなく、右側が少し欠けていた。月齢で言うと、18くらいだったか。数時間前には、犬の遠吠えやどこかのキャンプから かすかに歌声が聞こえてきていた。しかし今は、静寂そのものである。

 異国のこうした場所で、月をボケーッと見上げていると、日本にいる時よりいっそう気持ちが落ち着いてくる。心が洗われてくる。流行の言葉だと、これを“癒される”と言うのだろうか。ひょっとしたら、月光にはこうした作用がもともと備わっているのかもしれない。

 ところで、月の出ている東の空はひとまずおき、それ以外の三方の夜空を見上げた。数え切れない星星が、天空に貼り付いていた。中には明滅する星もある。噂どおり、やはりモンゴルの高地で見る星は美しい。神秘的でさえある。

 とは言うものの、星座などには全く疎い筆者は、北斗七星と北極星を探し出すのが精一杯だった。

モンゴルの 夜空も美味し 酒肴かな。日々好日、日々感謝。 (E.O)