(37) オレーシャとマリーナ-ハバロフスクで(その③)

マリーナとオレーシャ-ハバロフスクで

 昨年までの3年間、ハバロフスク市の見本市で鉢花を展示・即売してきた。そのうち一昨年と昨年、ブースのお手伝いをしてくれたオレーシャ(左)とマリーナ(右)である。

 タイプは違うが、二人ともロシア美人だと思う。真ん中でやや緊張しながらも、デレッとした顔をしている男を筆者と思って頂いても差し支えない。二人が話す日本語はほとんどギクシャクしたところがなかった。よく分かった。それはおそらく、彼女たちの日本語教師=オルロフ氏による確かな教え方によるところが大きいのだろう。彼とは以前から面識があるが、ほぼ完璧と思える日本語だけではなく日本の文化等にも精通していた。

 二人とも熱心に働いてくれた。一鉢でも多く売ろうと努めてくれた。また、店頭に並べた植物で分からない点があると、すぐに筆者たちに訊いてきた。感心したことの一つは、二人とも常にミニ露和辞典を持ち歩いていたことだ。

 オレーシャは小柄だったが、しっとりとした大人の雰囲気を漂わせていた。お客がいない時などたまに、ふっと愁いと退屈を帯びた表情を浮かべた。

 それに対して、マリーナはオレーシャよりは年下で、背は高目で明るい性格だった。また、園芸にも関心があったようで、ある程度の知識を持っていた。だから、彼女にもっと花の知識を教え込めば、すぐにでも日本のきれいな花屋さんのきれいな店員さんになれる。そう思わせる女の子だった。

 ハバロフスクをまた訪れる機会があれば、二人をまた誘って“ルースキー”で食事をしたいものだ。(なお写真は昨年9月に筆者たちのブース前で撮ったものである。)

Хабаровскでも日々好日、日々感謝。 (E.O)

(36) 堤外地の春

堤外地の春

 信濃川の堤外地でも様々な花が咲き始めた。

 左手の白花の高木はハクモクレン、中ほどの黄色い花を付けた中木はサンシュユである(その前面をモミジが遮っているが)。また、右手の薄紫の花を咲かせているのはニシキモクレンだろう。右手奥に見える鮮やかな赤花は、早生咲きのチューリップである。その奥には信濃川が流れている。なお右上の山は弥彦で、撮影したときは全く眼中に無かった。

 実はこの辺りの信濃川右岸の堤外地は、わが国で最初にチューリップの商業栽培が始まった場所である。

 趣味ではなく商売として、日本で初めてそのチューリップ球根の栽培に取り組んだのは小田喜平太であった。彼は地元の園芸生産者だったが、進取の気性に富む人物だったようである。彼は当時では新しい花であったチューリップに心惹かれた。そして、親しくしていた郡役所の小山重という農業技術者による熱心な応援もあって、それに挑んだ。周囲から家運を傾けると心配されるほど、彼は入れ込んだらしい。そして、とうとうそれをなし遂げた。1918年(大正7年)のことである。

 それ以降、新潟のチューリップ球根の生産は拡大していった。戦前にはこの辺り一帯がまるでチューリップ園と化し、県知事らを招いて園遊会が催されたこともあったようだ。筆者も当時の写真を見たことがある。

 現在この地域が150軒もの生産者・業者を擁する園芸産地となったのには、このチューリップの球根生産も大きく貢献した、と考えられる。

[文中 敬称略]

日々好日、日々感謝。時には温故知新。  (E.O) 

(35) 畦塗り機

畦塗り機_01

畦塗り機_02

 この地域で花卉園芸が盛んとはいえ、ビニールハウスや温室ばかりではない。田んぼもあちこちにあり、春耕が始まっている。そして、その様相がだいぶ変わって来ていることに気づいた。とりわけ近年の「畦塗り」にはたまげた。スグレモノの機械によって、見る見るうちに畦が整形されていく。興味を覚え、後学のためにもその“畦塗り機”の作業を見学させてもらった。

 実家が農家ではなかったので、水田稲作については知識をほとんど持たない。そこで、花卉園芸も稲作もやっている篤農家Hさんから、いろいろお聞きした。かつて畦塗りは大変な作業だったこと。それが15年か20年前くらいに最初の畦塗り機が出現し、機械化されてとても楽になったこと。だから当時は画期的だったこと・・・など。

 けれど、最近の第二世代ともいうべき畦塗り機は、いっそう画期的なのだそうだ。旧式機としくみが違い、故障もはるかに少ないという。また、この新型機にかかれば、2反田でも10分か15分で作業を済ますという。昔なら屈強な大人でも、クワを用いて1日がかりの仕事だったらしい。ところで、この畦塗り機、トラクター後部にアタッチメントとして取り付ける。価格が80万くらいはするらしいので、何人かで共同購入したのだそうだ。

 機械によってしっかりとスッキリと、それも短時間でみごとに畦の直線が作られていく。見学しながらその仕事ぶりに感心し、感動めいた気持ちすら湧いてきた。

日々好日、日々感謝。今回はとくにHさんに深謝、深謝。 (E.O) 

(34) コインのない世界―モンゴルにて⑦

コインのない世界・モンゴルにて

コインのない世界・モンゴルにて2

 モンゴルの通貨はトゥグリク(Tg)という。最近の両替レートでいうと、1円は約15Tgである。そのトゥグリク、紙幣だけである。アジアでは幾つかの国(地域)でコインが無いように思うが、モンゴルもそうだ。かの友人B氏によれば、コインは発行されてはいるが、ほとんど使われていないという。筆者もこれまで一度も見たことがない。

 硬貨がなくて紙幣だけだと、どうなるか。財布を二つ折りに出来なくなり、たいへん不便になる。(筆者は二つ折りにする習慣がある。)

 仮に1万円をTgに両替しようとする。そうすると、2万Tg札など高額紙幣も混じるだろうが、たいてい紙幣1枚(1万円札)が十数枚になってくる。これだけで財布が厚くなる。

 さらに買物に行った場合など、財布から小額紙幣を自ら取り出して払う、といった事はまずしないだろう。キャッシャーさんに財布の中身を見せ、必要な紙幣を取り出してもらい払うことはある。しかし、それはレジが混んでいる時はできない。だから筆者などは、モンゴルに限らず外国に行った場合、レジで高額紙幣を出してお釣りをもらうというパターンが多い。

 そうするとモンゴルでは、またドッと紙幣でつり銭が来る。これを繰り返していると、財布が厚くなっていくことはあっても、薄くなっていくことは当分ない。因みに写真は筆者の財布だが、12日には紙幣を数えたら34枚もあった。日本なら、財布が厚くなることは喜ぶべきことだと思うのだが。

 硬貨がなくて1円から1万円まで全て紙幣だったら・・・。紙幣の詰まった札布団で寝る悪夢(?!)を見てしまうかもしれない。あァ、紙様。

モンゴルでも日々好日、日々感謝。 (E.O)

 

(33) 畦道のエーデルワイス

畦道のエーデルワイス

 4月に入っても、朝の気温が5℃以下の日がしばらく続いた。6日の朝、ウォーキングの出発時も0℃前後で肌寒かった。

 いつものように2kmほど歩き、排水機場前で折り返した。その帰り道、何気なく春耕前の田んぼを見やった。行きでは気付かなかったが、おっと!畦道に生えた植物に目が止まった。びっしり帯状に生えた野草に霜が付き、朝日を浴びて銀色に輝いていた。田んぼの所有者には悪いが、除草されていなくて良かった。

 ハコベの仲間だと思う。茎は赤みを帯びていたが、“畦道のエーデルワイス”と表現してもよいほど可憐だった。

 ウォーキングを終えても気になったので、すぐデジカメを持って撮影してきた。その時の1枚がこの写真である。

日々好日、日々感謝。 (E.O)

(32) “歩行者優先”は通じない!?―モンゴルにて⑥

歩行者優先は通じない!?モンゴルにて

 ウランバートルの街なかを歩きながら、緊張するのは横断歩道を渡る時である。

 メインストリートには横断歩道用の信号が一応は設置されている。けれど、その信号が緑に変わっても、うかうか出来ない。右・左折車が歩行者の渡り終わるまで待つなどという事はあまりない。むしろ、徐行とは言えないようなスピードで突っ込んでくる場合もある。

 より大変なのは交通量の多い場所で、歩行者用信号機が無い横断歩道である。こうした所を横切るときは、モンゴル人の友人B氏は筆者の手をしっかり握り、「行くよ!」とタイミングを計ってサッと渡る。今回の滞在でも2度あった。

 最初にモンゴルを訪れた際、ちょうど写真の横断歩道で目撃した光景があった。おそらく写真よりは多いクルマの量で、それも皆ふつうのスピードで走行していた。目の前で突然、4,5人の少年たちがススススッ!一瞬にして見事にあちら側へ渡りきったのだ。これには唖然とし、舌を巻いた。一瞬の決断、素早さ、身のこなし・・・やはり遊牧民族のDNAがそうさせるのだろうか。

 しかし、農耕民族の末裔たる筆者も、朝歩きでは一人で横断歩道を渡らざるを得なかった。最初の日は、信号が緑になっても何度か首を左右に向けながら慎重に渡った。だが、2日目にふっと気づいた。何も単独で横切らなくてもいいのだ!そして、試した。

 複数の若者が横断するのをねらって、さりげなく彼らのそばに寄って行き一緒に渡る。うまくいった。もう一回は、帽子や軍服が立派な将校さん(?)と共に横断した。これもうまくいった。彼は横断途中で信号が赤に変わっても、全然あせらない。いったん道路の中央線で止まり(これは他の横断者でもよくやるが)、今だ!という時に急ぎ足で向こう側へ。もちろん筆者もその通りにし、成功した。

モンゴルでも日々好日、日々感謝。だけど、たまには危ないときもある。 (E.O)

(31) ザイサンの丘―モンゴルにて⑤

ザイサンの丘―モンゴルにて

 モンゴルを訪ねると、いつも寄る場所がある。「ザイサンの丘」(ザイサン・トルゴイ)である。ウランバートルの南にあって市街地を俯瞰することができ、眺望がすばらしい。また、その西側にはなぜか金色の大仏様が建てられている。そのせいか、いつも観光客が絶えない。

 写真はそのザイサンの丘の中腹(踊り場)から撮影したものだ。中央の茶色っぽいゾーンと、その下の白い部分はセルベ川である。その白い帯はまだ氷っている川面なのだ。やや手前部分は、また新しいマンション群でも建つのだろうか。

 一方、手前には白い台座の上に旧ソ連軍の戦車が展示されている。筆者などは違和感と共に興味も抱く。ウラジオストク市内でもこうした兵器の展示は目撃しているから、旧社会主義国の人にすれば普通のことなのだろうか。

 ウランバートルでは年々ビルが増えてきている。この写真ではなかなか確認できないが、市内のあちこちで建築用クレーンが動いている。また、この丘の近くまで新築マンションが迫ってきている。こんな事は2009年の最初の訪問のときには無かった。

 丘の頂上にあるモニュメントについては、ここでは触れない。一回行けば沢山だし、頂上に辿り着くには階段をかなり上らなくてはならない。中腹でも眺望は決して悪くないのだ。だいいち、この写真がそうなのだから。180度にわたって街を一望できる。ウランバートルの拡大と発展が実感できる丘である。

モンゴルでも日々好日、日々感謝。 (E.O)

(30) ウォーキングは広場で(c)―モンゴルにて④

ウォーキングは広場

 ウォーキングのコースだったスフバートル広場の東南の角に、黒っぽい高層ビルがある。都会的な建築物で「セントラルタワー」と呼ばれ、まだ建てられて間もないらしい。

 この17階のレストランに昨年一度入ったことがある。景色も抜群にいいのだが、値段もかなりいい。2人で行って、ビールとチーズだけで出てきたことがある。

 ところで、そのビルの広場に面した側に写真のようにLOUIS  VUITTONとErmenegildo Zegnaという二つのブランド名が刻まれている。ウォーキングで広場を周回する度に、VUITTONは分かるけれど、Erme・・・はイタリア系みたいだが。正確にはどう読むんだろう、何のブランドなのだろう、と思っていた。

 帰国してから、インターネットで調べてみた。それは“エルメネジルド ゼニア”と読むらしい。さらに東京に住む次男のお嫁さんに聞いてみた。彼女はなかなか物知りで、「ゼニアですか。一応知っています。」とのこと。

 ウランバートルではこのように、今やVUITTONやZegnaの文字も目にする。KARAOKEという看板もときどき見かける。日本車はもともと多いし、レクサスもけっこう走っている。ビルやマンション群の建築は相変わらず活発である。また、ウランバートルの人口が110万人から120万人近くに増え続けているという。豊かな地下資源を持ち、リーマンショックも乗り越えたと思われるこの国が、急速に変わりつつあるようだ。

モンゴルでも日々好日、日々感謝。 (E.O)

(29) ウォーキングは広場で(b)―モンゴルにて③

ウォーキングは広場で(b)―モンゴルにて

ウォーキングは広場で(b)―モンゴルにて

 3日間とはいえ、スフバートル広場を歩いて4周もしていると、そこですれ違う常連さんができた。言葉はもちろん挨拶も交わせなかったが、顔なじみの人々と毎朝出会った。

 あの寒さのなか耳あて帽もかぶらず、一人で黙々と走り続けていた背の高いすらっとした青年。同じジョギング組なのだが、運動を切り上げるときには必ず後ろ向きに走ってから終える、白いセーターを着た若い女性。彼女のその後ろ向き走行はリズミカルだった。そうした彼女の生き方はとても前向きに感じた。

 ウォーキング組では、まっすぐ前だけを見ながらニコリともせずに歩き続けるおばさんがいた。何か深い悩みでもあるのか、夫婦げんかでもしたのだろうか。また、そうした固い表情のおじさんも2人いた。彼らは視線を合わそうともしなかった。

 ユニークだったのは、7時近くになってクルマで広場にやって来る一家と思われる3人だった。両親二人と娘であろう。彼らはクルマを降りると、最初のうちお父さんと娘さんはジョギングで外周を走り回る。しかし、お父さんは娘さんについて行けず、1周か2周でジョギングからウォーキングに切り替える。一方、お母さんは最初からマイペースで歩く。娘さんは最後まで走り続ける。そして、それぞれの運動を終えて、また3人で広場を去って行く。

 このお父さん、気に入った。なぜなら、ウォーキング最後の日に、筆者に対して挨拶をしてくれたからだ。親娘でジョギングを始めてまもなく、彼はすれ違いざまに微笑をこちらに向け、右手を上げてくれたのだ。思わず筆者も左手を上げて応えた。すれ違った人々の中でたった一人だけだったが、実にうれしかった。「お父さん、達者でね。」

(写真上は広場の北東方面で、中央左手にスフバートルの騎馬像がはっきり見える。/写真下は広場の西南方面で、ウランバートル市役所などが建っている。)

モンゴルでも日々好日、日々感謝。 (E.O)

(28) ウォーキングは広場で(a)―モンゴルにて②

モンゴル広場1-広場でのウォーキング―モンゴルにて

広場でのウォーキング―モンゴルにて

 ウランバートルでも朝のウォーキングは欠かさなかった。と言っても、入国日・出国日を除いた3日間だけだったが。けれど当たり前だが、ふだんのわが地元での朝歩きと色々な点でだいぶ違った。気温、ルート、すれ違う人々、頭に浮かぶ事柄、緊張感・・・。

 毎朝6時半頃から歩き出した。外はもう明るい。気温は3日間とも間違いなく氷点下だったろう。日本での冬季完全武装(ベンチコート+冬用帽子+首巻+毛糸の厚い手袋)で臨んだが、歩き始めてから20分くらい経過しないと身体が温まって来ない。最近の新潟なら朝でも5℃以上には達しているので、この差はつらかった。おまけにウランバートルは標高が1300mもあるせいか、肺が冷気を吸い込むせいか、歩行の前半はちょっと呼吸が苦しい場面もあった。

 コースはホテルを出発し、スフバートルという英雄の名前が付けられた広場を4周し、またホテルに戻るというものだった。そのスフバートル広場は市街地の中心部に位置し、ほぼ正方形で北側には政府宮殿があり、その正面にチンギスハーンが鎮座している。第一周目に彼の前を通り過ぎる時には、「おはよーすっ」と言いながら会釈をしていた。歩行時間は1周6分程かかった。だから、ホテル~広場間が歩いて約10分かかるので、いつものように40分以上は歩いていた勘定になる。

(写真はいずれも早朝ではないが、8時前だったのでまだ人通りは少ない。写真上はスフバートル広場の全景で、右端に英雄スフバートルの騎馬像が写っている。/写真下は中央やや左にチンギスハーン像が見える。また、右下はパソコンを操作していた今時の青年で、チンギスハーンもスフバートルもビックリしていた。)

モンゴルでも日々好日、日々感謝。 (E.O)