(593) モンゴル日記(308)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて56 】

北モンゴル最奥部を訪ねて56

北モンゴル最奥部を訪ねて56

 サガンヌール村に浮かぶ月は半月だった。モンゴルで眺める月はいつもそうなのだが、この時もなかなか風情があった。ただこの時は,侘しさのような雰囲気も漂っていたが。

 ところで,この村が最後の集落,最後の給油地だったので、全車ガソリンを満タンにした。最初はもう一軒あった別のガソリンスタンドに寄ったのだが、古びた様子だったのか,そこでの給油はやめて下の写真の所で入れた。確かにこちらの方が大きく”近代的”だった。

 給油後 各車のドライバーが集まって、隊長格のBa氏を囲んで打ち合わせを始めた。これからの段取りについてだった。長い間話し合っていたが、時刻はもう夜の11時過ぎ。

 話し合いはまとまったようだった。結論はきっと,この近くでテントでも張るのだろうと予想していた。ところが,ところが,走り続けることに決めたという。まさか・・・この先,真夜中の山道を駆けて行くなどとは思ってもいなかった。後で振り返ってみると、上りの急坂あり,至る所に岩場あり,気の抜けない道路の連続だった。そんな「行軍」が結果的には2時間半ほど続いた。

 結局こういうことだったのだ。つまりサガンヌール湖の西岸を引きつづき北上。そして湖の北端にあってそこに注ぐ川を渡り、今度は東側の湖岸を南下したということだったのだ。最終目的地はその先の先だったが。

  日々予想外、日々何でもあり。 (K.M)

(467) モンゴル日記(182)

【 停電と月 】

 

 ウランバートルではときどき停電がある。けれど、これまでいずれも長いものではなかった。しかしこの日、早朝からの停電は2時間以上も続いた。写真はその時のものだ。

 写真左はろうそくの灯りで室内を照らしている場面。「停電は時々あります。だから、ろうそくは必ず買っておいた方がいいですよ」と、社員のT嬢から言われていた。それで前回来たときに、ライターともども買っておいた。それが早くも役立った。だいたい停電なんて、皆さんご承知の通り、今の日本ではよほどの事がなければ起きないのだが。

 最初「どうせいつものように、すぐ復旧するだろう」、くらいに考えていた。が、この朝は違った。1時間たっても回復しない。さらに30分過ぎてもダメ。もし ずーっと停電が続いたら、バスルームにろうそくを持ち込んでシャワーを浴びるしかないな・・・。そんな事も考えた。

 結局この朝は、2時間以上たっても復旧しなかった。それなら、このいっときの暗闇を楽しもう、と頭を切り替えた。たまになら、こんな雰囲気も悪くはない。ろうそくの火が壁のタイルに反射して、その模様を浮かび上がらせた。何となく風情が漂い、悪くない。

 そして 外に目をやると、満月を過ぎてはいたが、月が南西の空にまだ残っていた。デジカメを持ってアパートの玄関に出て見上げた。良い月だった。(写真右)

朝は闇、けれどやっぱり 日々好日、日々感謝。 (K.M)

(412) モンゴル日記(127)

モンゴル日記

【夜明け前の月】

 月光が皓皓とあたりを照らしていた。夜明け前の美しい月だった。立ち並ぶビルの上空に浮かび、その背景の低い山並みをうっすらとシルエットに仕立てていた。満月の翌日だったから、まだ欠けてはいない。写真はアパートのベランダから撮影したものだ。

 この日の朝、4時過ぎに目が覚めた。ベランダの温度計は12℃。前夜はある集まりでけっこう飲んだはずなのに、不思議と酔いが残っていない。早朝で時間もあったので、厚着をして窓を開け、ずーっと見上げていた。

 風はほとんど吹いていない。それにここでは気候条件からか、蚊が飛んでこない。刺された記憶がない。水たまりがほとんど出来ないし、水面は河川以外は見あたらない。たぶん蚊の幼虫の育つ環境が成立しないのだろう。

 さて この窓からの風景のなか、動く物体はほとんど無い。今日が土曜のこともあるのだろう、昼間はあれだけ渋滞する道路もクルマが通らない。時おり、川の手前の線路を列車が通り過ぎるくらいだ。ボケーッと眺めていると、やはり吸い込まれそうになる月だった。

 こんな月を朝から拝んだせいか、気分が乗ってこの日の朝食は豪華になった?!つまり、パン+ブルーベリージャム,特製豚汁,納豆(卵&刻みネギ入り),ミニトマトぽん酢漬け,牛乳,ミカン,緑茶といった具合に。

 モンゴルでは、星に劣らぬくらい月も美しい。今日もよい日になりそう!

日々好月、日々感謝。 (K.M)

(407) モンゴル日記(122)

【北京だより ⑩】

 これは良い眺めだった。夜空は雲ひとつなく、月が浮かんでいた。激動しつつあるかの国の首都で見上げた、貴重な月である。時刻は現地時間で19時過ぎ。月齢13日で、満月に近かった。

 この時は、わがフジガーデンの社員T嬢も同行していた。けれど、彼女には月を愛でるというような趣味はないようだった。おそらく、若いモンゴル女性の多くはそうかも知れない。月をときどき見上げる。そして、あの吸い込まれそうになる妖しい光のもとでモノゴトを考えたり感じたり、ただ一心に眺める。これがよいのだが・・・。

 だから彼女は、筆者が口を開けてボケーッとしばらくこの月を見上げていた姿をどう思ったかは知らない。大仰に言えば、だいたい日本人の伝統的な月との関係など知らないだろう。そのうち「カタオカさん、待ち合せ場所にいきましょう」と、促された。

 ところで、写真のこのSoshowというビルは、なぜかは知らないが、日本のガイドブックの地図にも載っていた。(それは後日 分かったことだが。)だから、何らかの理由で広く知られているのだろう。実際ランドマーク的な存在で、翌日D社長と天壇に行った帰りなど、これが目印のひとつになった。

 この先、この地でこうした夜空を見る機会はほとんどないと思う。印象深い北京の月だった。

月はツキにつながり、どこに行ってもツキがついて回るように・・・。日々祈り、日々感謝。 (K.M)

(385) モンゴル日記(100)

【ベランダからの月 あるいは海外で単身生活をする方法】

 友人や親しい同業者からときどき、「ひとりでよくモンゴルあたりで生活できますね。いろいろ大変でしょう?」と問われる。そう言われても・・・。まぁモンゴルには失礼ながら、欧米などよりは気候が穏やかでなく、生活の面でも不便が多いかも知れない。

 けれど 突然の停電や断水などはたまにあるけれど、わりと早く復旧するので、今のところそれほど苦にならない。「ああ、こういう事もあるんだなぁ」くらいに受け止める。いや、努めて受け止めるようにしている。場合によって、こちらに3週間も滞在し続けることもあるが、ひじょうに不便だ,困ったということは案外少ない。おそらく、その人なりのこの国との相性や、この国の空気へのなじみも関係してくるように思う。

 ところで、どうやってモンゴルのアパートでひとり生活できるのか?そこで少し考えた。まず何といっても身体が健康であること。そして、心の健康である。そのためには毎日の生活で、新潟にいる時と変わらぬ生活パターンを保つこと。起床時刻や就寝時刻、体操,炊事などなど。あとは、日常のちょっとした発見や感動を、この地でも経験すること。また大切なのが、心が通じる友をもつこと。筆者の場合はもちろん親友Bさんである。そして、ボケーッとお月様を見上げる時間を持つこと。

まず基本は身と心の健康です、はい。日々好日、日々感謝。 (K.M)

(365) モンゴル日記(80)

モンゴル日記

【ウランバートルの冬の月】

 写真は、筆者の部屋から撮影した三日月である。下の光の点線は車列だ。

 この晩、鬱々としていた。部屋でテレビもつけずに、缶ビールを一人で飲っていた。昼間のいくつかの出来事、これから先のことを思い浮かべ、悶々としていた。それが消えたり、浮かんだり。そのうち、例の「哲学的疑問」も久しぶりに襲ってきた。・・・おれはどうして今、ここにいるんだろう?だいたい、なぜモンゴルか?・・・還暦になっても、こんな気持ちになる時があるんだなァ・・・。

 どうしようもない意識のこうした悪循環が、らせん状に大脳を上下する。ビールの空き缶が増えていく。そんな時、何気なく窓の外に目をやる。・・・おーっ、何とも美しく神々しい三日月が!!

 ・・・この夜空の中ほどに境目があり、上半分は月を含む天空世界、下半分は照明と喧騒あふれるシャバ世界。モンゴルであれ日本であれ、人はときどき天空世界に心を通わせないと、きっと心が持たないのではないか。下界を照らす月は、そのためには最良の天体かもしれない・・・。

 そのままボケーッと眺めていた。やがて気持ちが落ち着いてくる・・・。

 そう言えば、合弁会社のパートナーD社長が、遠方に行くときは必ず双眼鏡を持っていく。そして、その地で月を見上げる。どうも彼も、月を眺めるのが好きらしい。

酔いも深まってきた、さぁ寝るとしよう。 日々好月、日々感謝。 (K.M)

(355) 月と電線

月と電線

月と電線

 写真上は、雲と電線もうっすらと写ってはいるが、一応まともに月が撮れている。それに対して、写真下はその数分後なのだが、電線がまるで月をツキ通しているような画像になった。

 これはちょっとシュールで、気に入った。意図したものではなく、何かのはずみで偶然でき上がったもので、撮ったのではなく「撮れた」と言うべきなのだろう。

 これは満月直後の月で、日にちは11月19日のこと。その頃、月齢にかかわらず良い月をたびたび拝めた。この夜もそうで、寒々とした空気の中でときどき雲がかかったが、冴えていた。写真下は偶然のお遊びとしても、風情のある月だった。

 俳句ではふつう、月と言えば秋の季語とされるようである。やはり、それほど秋になると月の風景が人の心を引きつけるようだ。気候的な条件もあるし、たぶん人間の心理的な面も関係してくるのだろう。動的で激しい夏が過ぎ、静的ではあるが厳しい冬を迎える時季でもある。もの悲しい気持ちになりやすいのかも知れない。そのうえ、月が発する独特の吸引力のせいもあろう。秋には、そのパワーが一段と強まるのだろうか。

 月光の つきぬけてくる 樹の匂い  (桂 信子)

 とにかく 、この夜の月は青白い色気のようなものすら感じた。この号が公開されるのは、ちょうど筆者がモンゴル滞在を終える頃だ。

冬に入ったかの地では、どんな月が見れるだろうか。 日々好月、日々感謝。 (K.M)

(352) 晩秋の三日月

 11月上旬の夕方、当地でも美しい三日月が望めた。それで撮影道具を持ち出して、信濃川の堤防の上で構えた。実をいうと、前日の夕方も出現したのだ。「めったにないシャッターチャンス!」と、あわてて準備に取りかかった。が、手間取ってしまい、その間に月は雲に隠れてしまっていたのだ。

 筆者は今回はじめて試みたのだが、三脚にカメラを据えつけてシャッターを押した。その時の「作品」がこの写真である。まぁ何とか、輪郭の線がきれいに出たと思う。プロや趣味家からみればアホらしいだろうが、素直に喜んだ。だいいち、レンズのついた数十センチの黒い箱が、天空の月を切り取ってしまうんだもの。

 ところで 三日月であっても、月を長時間見つめていると、どうも魅入られるというか、気持ちが引き込まれる。かぐや姫のように、この世界からいなくなってしまうかも知れない。このことは、これまでも何度か述べている。月の風景はパワースポットならぬパワービューとでも言うべきものなのだろうか。

 それにしても、冷たく優美な三日月だった。きっと、これにふさわしい俳句があるだろう・・・そして、探しあてたのが下の一句である。新潟に住む人たちや新潟をよく知る人には、イメージが容易に浮かぶと思う。

 三日月の 沈む弥彦の 裏は海 (高野素十)

30日から、またモンゴルに飛ぶ。かの地はもう-15℃の世界なのだ。 日々冷日、けれど日々感謝。 (K.M)

 

 

(340) モンゴル日記(66)

【バヤン・チャンドマン農場①】

 夜明け前だった。空には満月を過ぎたばかりの月が浮かび、地上には厠が立っていた。早朝 5時過ぎの、静寂に満ちた風景である。まだ誰も起きてこない。

 ここはバヤン・チャンドマン農場。ウランバートルから車で約1時間半。以前にも紹介したが、50haもある大農場である。今回はソヨーチ社のD社長,親友Bさんらと前日の夕方にやって来て、ここのログハウスに泊まった。子供を含む先発組がすでに来ていて、総勢は7人だった。前夜は、その中で筆者がいちばん早くベッドに入ったようだった。モンゴル・ウオッカを浴びたからだろう。

 そのせいもあり、早く目が覚めた。幸い 二日酔いはなく、頭はスッキリ。7月下旬なので、外は寒くない。夜明け前のこうした雰囲気はいいものだ。何か神秘的でもあり、昼間より五感が敏感になっている。そんなうす暗いなかだが、「屋外活動」を始めた。

 まずは、ログハウスから懐中電灯とトイレットペーパーを持ち出し、厠に向かった。掘っ立て小屋式の、昔 田舎にあったようなあれである。そこで用を足すのは、この国で何度か体験している。が、中に入りしゃがみ込むと、やはり不思議な空気が漂ってきた。そうして、「おれは今、どうしてケツを出してここにいるんだろう・・・」、そんなことをフッと思った。

月明かりのもと 草原の厠に入ると、哲学的な思いが湧いてくる。日々快便、日々好日。 (K.M)

(304) モンゴル日記(30)

モンゴル日記

【月と母と童謡と】

 これはホテルの部屋から撮影したもので、現地時間で午後10時半ころ。遅い夕食を済まし、ホテルに戻ってきたところだった。少し飲んだが、酩酊というほどではない。今度は気分を変えて、部屋の冷蔵庫から缶ビールを取り出し、月を肴にして飲みはじめた。いい満月だった。

 チビリチビリやり始めた。さまざまな事が頭の中を去来し、飛び交う。だいたい、こうして醸し出される時間は嫌いではない。まして異境の地なのだ。ただこの時は、3月に亡くなった実母のことを思い浮かべた。

 以前にも書いたが、母はもともと新潟県人ではなく、伊豆で生まれ育った女性だった。気丈でネアカ、末っ子だった筆者には甘かった。

 その母は晩年、養護施設にお世話になっていた。それが、2月のモンゴル行きから戻ってまもなく、医者から入院を勧められ、実家の家族もそれに従った。その際、医者からは既にそれなりのことを告げられていた。

 入院後はできるだけ時間を作り、母の顔を見に行った。すでに半ば意識がなかったが、こちらが語りかけると、かすかに反応することもあった。ある時、何気なく枕もとで母の大好きだった童謡を歌った。「桃太郎」,「一寸法師」など、歌詞は不完全だったが、続けた。すると 驚いたことに、母は閉じていた両目を数秒、わずかに開けた。そうして母の痩せた手を握っていた筆者の手を、強くはないが握り返してきた。「ああ 母さん、分かるんだね。道夫だよ、道夫!」

 その3日後、母は94歳の生涯を閉じた。

日々好日、日々感謝・・・本当にありがとう、母さん。 (K.M)