(695) モンゴル日記(410)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて158 】

 クルマのエンジントラブルは何とか切り抜けた。そして故障現場に引き返してくれたBa氏のクルマに先導されるようなかたちで、再び帰路につく。そうしてようやくオフロードを抜けた。しかしその間,ラジエータの冷却水はちょっとづつ漏れていた。それで道沿いに水場があったら止まって水を補給。その回数は3回に達した。

 さてオフロードの終わりは、もうフブスグル県の県都ムルンだった。時刻は午後3時過ぎ。そして,ここの舗装道路に入ってまもなく、Ba氏一行と別れた。ここからは1台である。しかしムルンの町に入れば安心できた。なぜならここには相棒B氏の親戚がいて、何かあれば頼りになること。それにここならば、自動車修理業者がいるからだ。

 B氏はさっそく、彼の親戚Kさんに電話を掛けた。そして,まもなく彼が現れ、さっそくクルマの修理業者を訪ねた。ところが,1軒目は整備士が一人しかおらずダメ。次の2軒目も忙しくてできないと断られた。それでしょうがなく、Kさんの自宅に知り合いの自動車整備士に来てもらい、エンジンを見てもらうことになった。その結果、しばらくは走ることができるという判断を得た。

 それで安心し、Kさんが町のホテルでの食事に誘ってくれた。そうしてホテルに入ると、何と後発だったT氏やJ氏たちがいた。彼らは追いついたのだ。それで皆が食事を終えた後、今度は3台でウランバートルを目指すことになった。

 この3台の旅も途中までは順調だった。しかし結論からいうと、筆者たちとT氏・J氏一行とは再び別れた。それはもう時刻は夜の9時近くであり、ウランバートルにはこの日のうちには着けない。だから,どこかで一泊するしかない。ついては筆者とB氏は一緒に沿線のホテルで宿泊、T氏・J氏一行はもっと先でテントを張って一夜を過ごすということだった。それで再び別れた。

 さて,やっと写真の説明に入る。上の写真は翌日の帰り道での風景だ。簡単に説明すると、日本でいう「名水の里」なのだ。もちろん筆者たちも飲んだ。味はまろやかな感じがして腹痛も起こさなかった。だから,やはり名水なのだろう?!

 下の写真はシソ科と思われる植物の群落である。「名水の里」をスタートし、草原の道をだいぶ走っていくと、こうした小群落があちこちに現れた。

 一路ウランバートルへ、一路わが家へ。 (K.M)

(694) モンゴル日記(409)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて157 】

 朝食後に皆が帰り支度に取りかかった。しかし全員が一斉にスタートしたわけではない。実は2グループに分かれたのだ。何も内輪もめをした訳ではなく、事前にそう決めていたらしい。ランドクルーザーのBa氏一家とXトレイルのB氏と筆者が先発グループ、そしてT氏とJ氏の家族2組が後発グループとなった。

 それで筆者たちは後発グループに見送られて、テント設営地を後にした。結局,スタート時刻は12時。そして来るときと同様、Ba氏のクルマが前を走った。この時点で、ここから先に何が起こるのか、そんな事などB氏も筆者も全く想像していなかった。

 上の写真のように、通り過ぎる丘陵にあのカモメらしき鳥たちがいたことに喚声をあげ、川を渡り丘を越えた。まァ順調に帰り道を進んでいるように思えた。

 けれど,それも30分ほど。実は上の写真と下の写真の間に、大トラブルが起きた!!乗っていたXトレイルがエンジントラブルを起こしてしまったのだ。

 長い上り坂を越えて平場に変わったときのこと。走っていたら、突然ボンネットのすき間というすき間からボワッと水蒸気が噴き出したのだ!いやァたまげた!即座にB氏は停車した。と,エンジンの温度が上昇してきたのである!原因はラジエータだった。そのリザーブタンクのホースの留め具が外れ、その瞬間に圧力のかかっていた水蒸気・熱湯が一気に噴出したらしい。いやァ、こんな目に遭うのは初めて!それも何もモンゴルの大いなかで起こさなくても・・・。

 B氏は”噴出”がおさまってから、ボンネットを開けた。彼はエンジンについて詳しいのか、すぐに原因を突きとめた。そして「漏れてもいいから、まずラジエータにどんどん水を入れましょう。あっちこっちにミネラルウォーターを積んでいるから、それを使いましょう。シャチョーすぐ探してください。入れるのは私がしますから」。

 彼はどこからか厚い手袋を探し出して手にはめ、慎重にラジエータの蓋を開ける。筆者は指示どおり動いて、すぐにミネラルウォーターを見つけ出し、2㍑ボトルを4,5本渡す。

 しかし,しばらくは水を注いでも注いでも足りないようだった。が、しだい水蒸気は出なくなってきた。それから彼はバッグからタオルを取り出し、またペンチのような用具をクルマから探し出した。そしてリザーブタンクの外れた留め具を、手こずりながらも取り付け直しにかかった。何とかうまくいった。それから次の指示である。

 「シャチョーは前を走っているBa氏のクルマを追っかけてくれませんか。あまり私たちが遅いので、きっと待っていることでしょう。私はもっと水を入れます。」その指示通りに、筆者はB氏とXトレイルが気になりながらも、速足で歩きだした。けれど30分も歩いたろうか。Ba氏のクルマは全然見えてこない。それで決断して、引き返すことに。

 戻ったら、B氏は足もとにきれいな水の入ったボトルを数本置いていた。どうやら,あっちこっちにミネラルウォーターが積み込んであったようだ。とにかくまずは安心。水温もまともになって来たようだ。やがてBa氏たちも戻ってきてくれた。いやァ助かった!

 下の写真は応急措置をほどこしたXトレイルが、再び動き出したところだ。この後、3ヶ所で水の補給を行いながら帰り道を進んだ。

 日本ではあり得ないことを経験した。時々タマゲ、たまーにブッタマゲ。 (K.M)

(693) モンゴル日記(408)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて156 】

 ”思い出多き北モンゴルよ・・・また来るぞー”。上の写真は思わず惜別の念から、西の方を仰いだものだ。この風景を見納めにしたくない!

 さて10時を過ぎてから、モンゴル勢はようやく起きだしてきた。テントに寝ていた彼らは、昨夜遅くまで飲み食い喋り、そっしてたっぷり眠ったはずなのに。

 とは言え,彼らが”朝の用務”を済ませるまで、逆にテント周辺には近寄らないようにした。むしろ歩きまわって4時間になるが、野鳥の声を聞きながら花々を愛でるのは止めたくなかった。今朝,万歩計はすでに5,000歩以上。

 そんな時、「シャチョー、用事があるよー」。もちろんB氏の大声だ。それでテントに戻る。昨夜と同様、朝食用に火を使うのでタキギを探して来てほしいという。

 それにはきのう同様,若者たちもまた加わった。そのせいだろうタキギは短時間で集まった。朝食後にテントを撤収し、いよいよウランバートルに向けて出発するのだろう、と考えた。

 筆者は、遅くなってもみんな一緒にこの日のうちにウランバートルに戻るのだろう、漠然とそう思っていたのだ。しかしこれは結局,筆者の思い込みに過ぎなかった。

 下の写真はご覧のとおり、筆者たちのテントである。まだ2つ片付いていなかった。T氏一家とJ氏一家だった。まだ寝ている人がいるらしい。

 さらば花園,草原よ、今度はオキナグサ咲くときに。 (K.M)

(682) モンゴル日記(397)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて145 】

 上の写真は日本のギシギシの仲間だろうか?姿・形が似ている。花穂?が赤かったので興味を引かれた。この草原では所々に立ち上がっていて、草丈は1mに達するものもあったろうか。

 しかし現地では気づかなかったが、この写真を拡大してみると、茎の中ほど右端に少し白っぽい花穂のような部分を発見した。たぶんこれが本当の花なのだろう。それが時間がたって、赤く変化したと思われる。

 さて下の写真は、テント設営地の朝を遠望したものだ。南側の山麓から撮ったもので、草原と川辺の間に豆粒のようなものが並んで見える。それが筆者たちのクルマとテントである。6時頃の写真だ。

 夕べは皆が遅くまでやっていたようだ。延々と飲み続ける男性軍、切れ目なく喋りつづける女性軍・・・それに絶えない笑い声。それでも筆者はいちばん早く眠ったようだ。

 この日の朝は5時に起床、うす曇り。山麓を中心に、周辺からは何種類もの鳥の声がにぎやかに聞こえてきた。もちろん誰も起きていない。いつものように”朝の用務”を草むらで終え、川で顔を洗う。清冽な水が気持ちよかった。そして,この日は朝の体操もやることができた。この日は奇数日だったので、「みんなの体操」と「ラジオ体操第一」。北モンゴルに来てからやれなかった日もあったが、今朝は爽やかな空気の中で「1,2,3,4・・・」と始めた。

 日々元気、日々爽快。 (K.M)

(676) モンゴル日記(391)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて139 】

 写真上の木橋は行くときには渡らなかった。この橋を横目に見ながら、大回りになる違うルートをとったからだ。しかし今回の帰り道では、この橋を対岸からこちら側に渡った。水の流れはせいぜい幅4,5mくらいだろうか。ふだんは濁りもなく、おとなしい清流のようだった。

 4台のクルマが橋を渡ったあと、皆で休憩をとる。それでメンバーの中には背伸びをしたり、歌を口ずさむ人もいた。メンバーの間にはリラックスした雰囲気が生まれた。それにこの橋はお金をとらなかった!それというのは、1時間ほど前に渡ってきた橋のことである。(587)号でも述べた橋だが、帰って来るとき,そのたもとには地元役人らしき人間2人がいて、「大水で橋が傷んだから修理をしたい。それで橋を渡る人たちから、その修理代の一部を負担してもらっている。皆さんにもお願いしたい」と言う!渡らないわけにはいかないから、払って来た。

 さて写真下は、この橋の下流に広がる河原である。砂利の原っぱのあいだを本流が流れていた。そして対岸のズーッと先には白いゲルが4棟、またその彼方には三角錐のようなあのデルゲルハンガイらしき山も見えた。来るときにはこの辺りに、女性観光客たちを乗せたあの”観光バス”がいたことを思い出した。

 この頃になって、この日の夜はテント泊するという話を聞いた。日々遅い情報、日々後まわし?。 (K.M)

(674) モンゴル日記(389)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて135 】

 競技種目のなかでは、やはりモンゴル相撲がいちばん人気があるらしい。B氏もそう言っていたし、この会場でも取り組みが進むにつれ観客は増えてきた。上・下の写真とも、そのモンゴル相撲の観客たちのようすだ。

 上の写真は前半で、観客はそれほど多くはなかった。しかし取り組みが進むにつれ、しだいに観客が増えてきた(下の写真)。そして多くの老若男女が相撲場を囲み、しだいに盛り上がってくるのが分かった。けれど掛け声や立ち上がっての声援などはない。また,この相撲場では序盤戦で一度に4組が対戦した。取り組みが進むと2組となり、やがて1組が優勝を掛けて闘うらしい。(ただし時間の関係でそこまではいられなかったが。)

 詳しいルールは知らないが、モンゴル相撲は日本の大相撲とちょっと違う。まず土俵やそれを示す白線などが見当たらない。それは出し技はないからだ。決まり手はすべて投げ技か倒し技らしい。つまり相手の頭,肘,背中,膝などを地面につけると、勝ちになる。ただし掌だけは地面についても負けとはならないという。この点も大相撲と異なる。

 ところで,上の写真ではバックに広い水面が見える。また下の写真でも,左側中ほどに小さく水面が覗く。もちろんサガンヌール湖である。サガンヌール村はいつも湖と共にある。

 ここで一首 「ナーダムは 相撲に競馬 弓を射り 遠き祖先の血が騒ぎ」 (K.M)

(673) モンゴル日記(388)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて136 】

 上の写真は会場を行く競馬関係者たちだ。国旗を掲げ先頭を進む3人は主催者だろうか。その後ろが、出走する騎手たちだ。彼らはみな子供で、年齢は7歳から12歳までだという。

 騎手が子供なのは、以前から聞いてはいた。けれど目の前でその雄姿を目にすると、軽い衝撃を受けた。そして,日本の同年代の子供たちとつい比較してしまった。教育制度から国の歴史や国民の気質まで、日・蒙で大きな違いはあろう。けれど,それらを考え合わせても素朴に感じたこと。それは、彼らが日本の子供たちよりはるかに逞しいことだった。慣れてるとはいえ,レースは落馬の危険と隣り合わせなのだから。

 実際,こんな少年時代を過ごしたらしい親友B氏が、目の前で落馬したことを忘れてはいない。それは5年前のこと。日本なら、その場に居合わせた筆者が救急車を呼んだだろう。しかし,場所はウランバートルから遠い草原で、救急車などはムリ。落馬直後の彼は仰向けになって、動かなかった。すぐそばに駆け寄り,声を掛けると、「・・・だいじょうぶ」と絞り出すような声。それから十数分後にようやく起き上がった。その時の彼の第一声は、「丈夫に産み,育ててくれた親に感謝していました」。

 ところで下の写真は、観戦していたモンゴル相撲の序盤戦のようすだ。まだ観客が少なかった。

  はじめてのナーダム、相撲,競馬,弓射があった。 (K.M)

(672) モンゴル日記(387)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて135 】

 サガンヌール湖は、その周囲の大半が草原か岩地のようだった。だから障害物がほとんど無く、近くならその湖面はたいていの場所から望めた。上の写真の通りである。

 そして,湖畔にはサガンヌール村があった。ここは来るとき最後にガソリンを入れた、最奥の燃料補給基地である。ところでこの日は村の大イベントの開催日で、運よくそれに出くわした。たまたま村のナーダム、つまりモンゴル夏祭りの真っ最中だったのだ。ナーダムはモンゴル正月と並ぶ、モンゴル最大のイベントで国全体が休暇に入る。そして期間中,モンゴルの大半の市町村では競馬やモンゴル相撲など,いくつかの伝統競技が行われるのだ。下の写真はその会場の一角である。

 「シャチョー、何か見たい?」、B氏が聞いてきた。「初めてだから見たいですよ」。それを受けて、B氏など男性陣が相談して次のような段取りとなった。「私たちはおなかが空いたので、会場の食堂に昼飯を食べに行きます。あなたはおなかの調子が良くないようだから、食べない方がいい。でも,あなたの分は買っておきます。その代わり,相撲でも弓でも見ていればいいですよ。競馬は時間がかかるから、最後までは見られないと思います。」という。

 そう,実をいうと、筆者の”大”問題は腹痛がらみだったのだ。それはさておき、初めてのナーダムだった!

 食には日々注意、たまに不注意?! (K.M)

(670) モンゴル日記(385)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて133 】

 道を譲ったあのピックアップ・トラックの後を追うように走った。あのプラドの立ち往生以後は、道も手こずる箇所はなかった。しかし、周囲の森林の様相がしだいに変わってくる。立ち枯れの木々が林立し、まるで死んだ森のようになってきたのだ(上の写真)。

 この光景はしばらく続いた。そして本来は青々とした森林空間を通り抜けるのだから、気分が塞ぐわけがない。しかし,この黒と灰色の世界である。ここを抜ける間、気分が落ち込んでしまった。商売で生きた植物を相手にしているせいか、枯れ木の”死骸”はとても気になった。こうした木々の立ち枯れ現象も、以前述べた削孔虫の被害なのだろうか?

 とはいえ下の写真のように、やがてまわりの木々の緑葉が徐々に増えてきた。何か景色が明るくなってきた。そして気分も,もとの軽やかさをとり戻してきた。この後,来るときに見たあの立ち枯れ林以外、こんな光景には出くわさなかった。ただ,新たな不安がひとつ体内に生まれていた。”大”がしたくなって来たのだ。隣で運転を続けるB氏に訴えたら、「ちょっとガマンして下さい」と言うだけ。こちらにすれば、”大”問題なのに。

 今までこんな事は無かった。ずっと揺られたせいか、それとも何か食い物にあたったろうか?念のために持って来た日本の漢方胃腸薬を取り出した。

 日々快食、日々快便だったのに・・・。 (K.M)

(669) モンゴル日記(384)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて132 】

 写真上・下は林の中だ。後ろからやって来た他のグループに先を譲り、マイペースで進む筆者たちである。この林の中では、2つのグループが追い越していった。中にはアメリカのピックアップ型トラックのようなSUVも通過して行った(写真上)。

 その荷台にはいろんなモノが積まれていたようだ。けれど,カバーに覆われていて中身は分からなかった。面白かったのはその他に、キャビンの屋根や荷台との間にも様々な道具(キャンプ用品や何かのカバンなど)が載せられていたことだ。またこの車にも国旗ではなかったが、何かの旗が掲げられていた。とにかく外観が賑やかな車体で、”満艦飾”のオフロード車だった。

 ところで,しばらく経ってもT氏のプラドとJ氏のレクサスが来なかった。その2台はわがXトレイルの後ろにさっきまで続いていたはず。それで前を行くBa氏と共にクルマを止め、彼とB氏,筆者の3人で進んできた道を戻る。

 そうしたら,あまり歩かないうちにプラドが止まっていた。小さな峠のような岩混じりの所で、どうやら後輪が岩に乗り上げたような状態だった。それで動けなかったらしい。

 結局,筆者も加えた男連中4人がプラドを後ろから強力に押した。それで幸いにも1回で脱出!その後,プラドの後ろに控えていたJ氏のレクサスは、難なく乗り越えてきた。

 今のところ大事なし、小事で済んでいる。 (K.M)