(134) カレンダー

カレンダー

オランダの業者独特のカレンダー2012

 師走に入ると、あちこちからカレンダーを頂く。そして 有り難いのだが、それが溜まる。

 少年の頃カレンダーを幾つももらうと、妙にうれしかった。何だか、自分の生き方の選択肢が増えるようで、またもらったカレンダー分だけ時間が得したような気がした。しかし 近頃はカレンダーをめくる度に、「もう今月も終わる」と思わずため息をついてしまう。

 ところで オランダの球根業者からもカレンダーは送られてくる。下の写真がその一つである。よくご覧になると、それが日本製とだいぶ違うことがお分かりになると思う。ひと月1ページの場合、日付けと曜日が記されている点は同じである。ところが、その数字と曜日の配列が大きく異なる。日本製はふつう横に1日,2日,3日・・・と日付けが進んでいく。また曜日表示欄は上に来るし、日曜が一番左に来る。

 それに対してオランダの業者カレンダーは、縦に上から下へ1日,2日,3日・・・という風に日付けが変わっていく。また こちらの曜日表示欄は左側に設けてあり、その一番上に来る曜日は月曜である。だから、上から順に月火水・・・と並び、一番下段は日曜日なのだ。

 そして 彼の国のこうしたカレンダーには、その最上段に1から52までの数字がふってある。実はこれは一年間の各週を第1週,第2週・・・と示すものなのだ。オランダ側と電話でもFaxでもやり取りする際には、これが便利で的確なのだ。球根ビジネスではこれが当たり前で、こうした交渉をオランダ人らと英語でやれないと、輸入業務は務まらない。

色々な事があった平成23年も暮れます。良い新年をお迎え下さい。年々好年、年々感謝。 (E.O)

(133) ユリ試験栽培

ユリ試験栽培-1

ユリ試験栽培-2

 当社「中山農場」の東温室の中で、今年も3ヶ月間にわたってユリの試験栽培を実施した。栽培場所の保温カーテンを開けて中に入ると、ユリの独特の香りが漂ってくる。

 写真はその開花期の風景である。足を踏み入れて歩き回ると、まるで“ユリの藪”をかき分けて行くような感じすらした。写真下は品種データが記してある標示板を列ごとに立ててある様子である。

 上の写真で右上に見える赤い円筒形のモノは、昨年導入した木質ペレットストーブである。CO2削減に少しでも寄与しようと、他の4同業者と共に市の応援も頂きながら、使用を始めた。また、この事業には音楽家=坂本龍一氏が代表になっているmore treesも関係している。当社の場合は既設の石油ストーブの補助的役割なのだが、まずは利用することに意義があると考えている。

 ところで この試験栽培は、11月,12月にわたって開花させようと、園芸部の球根スタッフが冷凍球を9月に植え込んだ。今年で5年目となるこの栽培の目的は、①より詳細な栽培データを得ること、②近隣のお客様から写真ではなく、実物の花を見てもらうことである。

 今回は新品種を含むオリエンタル系を中心に約150品種をそろえた。花色は赤系,白系,ピンク系,黄色系、これに花柄の変化が加わる。また 花の大きさも大輪から小輪まである。だから 先月中頃から今月前半まで、開花の盛りの時にはまさに百花繚乱であった。

 もちろん清楚や可憐を感じさせるユリもあるが、迫力も覚える品種も少なくない最近のオリエンタル系ユリである。

花のタイプにかかわらず、ユリがあれば 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(132) 初冬の風景③

雪の飯豊連峰

 画面奥に見える白雪の高山は、飯豊連峰の南側である。手前の清流は阿賀野川の上流部だ。まさに山紫水明の景観である。

 撮影地は前回と同じく、東蒲原郡阿賀町(今回は旧鹿瀬町地内)である。麒麟山温泉に通じるトンネルの出口付近から撮った。

 飯豊連峰の姿は子供の頃から親しんでいた。県外に出るまでは、実家の側の小阿賀野川の堤防から五頭連峰越しに望めた。(なお小阿賀野川は阿賀野川と信濃川を結ぶ川で、運河だと言われている)。また現在は(130)号で書いたように、越後山脈の一番奥に眺めることができる。四季折々、飯豊連峰は越後平野の景観になくてはならない存在なのだ。 

 ところで 若いとき、とくに高校を中退して働いていた18,19歳の頃に、越後山脈の高くない山はいくつか登った。前の(131)号で記載した御神楽岳をはじめ、弥彦山,角田山,五頭山,白山,守門岳,浅草岳、そしてこの飯豊連峰の前衛峰と呼ばれる二王子岳にも登った。二王子には3回ほど行っている。

 しかし 飯豊には何度か登ろうと思った。単独で2回試みたこともあったが、いずれも途中で引き返した。結局果たせず、今に至っている。どのコースをとっても稜線に出るまでは7,8時間は要するようだ。だから生半可な知識や装備、気持ちでは挑めない山であり、必ず経験者に同行してもらわねばならないと考えていた。

 所帯を持ってからは、配偶者から「安心できないから」と単独行を止めるよう求められた。それで20年前くらいだろうか、巻機山を最後に山登りはしていない。

低い山でも頂上に立てば 日々好日、日々感謝。たまには登ってみたいんだわなァ・・・。 (E.O)

(131) 初冬の風景②

初冬の東蒲原1

初冬の東蒲原2

 写真の撮影場所は2枚とも、新潟県東部の阿賀町(旧津川町地内)の山間部である。時期は11月末だった。

 写真上は国道から数キロの地点で、低い山地の遅い紅葉である。今年の紅葉は色が冴えず、美しくないと思っていた。こうした感想は、友人たちも漏らしていた。しかし ここでは落葉樹の橙色が実に鮮やで、それが黒緑色の杉木立とコントラストをなしていた。雪景色に変わる前の束の間の風景である。

 それに対して、写真下はそこから数km奥に進んだ所である。道路脇には前日にでも降ったと思われる雪の残りがあった。その道路ぎわから奥の山を撮ったものである。もう雪化粧をしているこの山は、下越の名峰=御神楽岳(みかぐらだけ)である。

 この御神楽岳は標高こそ1400m足らずだが、新潟県と福島県の県境に位置し、ちょうど分水嶺になっている。また“下越の谷川岳”と呼ばれることもある。この写真では想像しにくいが、この山には切り立った大岩壁や登山道の所々に難所がある。また、確か登山口付近に遭難者の名前が刻まれた慰霊碑が建っている。こうした点もそう言われる所以なのだろう。

 過去に1回だけだが、この山に登ったことがある。今から40年ほど前だったろうか。尾根道とはいえ危険な箇所もあり、なかなか難儀な上りだったこと、また下りも膝がガクガクするほど長かったこと等は忘れていない。けれど 、頂上近くの小沼でちょっとした感動を覚えた。それはそこの水中に沈んでいたマシュマロのようなサンショウウオの真っ白い卵だった。

 写真の地はいずれも、今頃は純白の世界に様変わりしていることだろう。

山岳風景で気分を変えて 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(130) 初冬の風景①

初冬の産地風景1

初冬の産地風景2

 わが産地の遠景と近景である。まず上の写真について。手前の温室やビニールハウス群は、今から30年前に造成された花卉園芸団地である。十数軒がそこで様々な植物を栽培している。

 そのすぐ背後にある黒緑の低山帯は標高100mに満たない秋葉丘陵である。中ほどの薄青い山並みが五頭(ごず)山塊で標高900m台。その奥に白い峰々の頭が覗いているのが飯豊連峰である。こちらは標高2000m級である。

 越後平野の南東部に位置するこれら三列の丘陵と山々。いわば穀倉地帯のバックに立つ扇と衝立と屏風である。越後平野の景観に季節と奥行き、そして美しさを与えてくれる。

 12月に入り、こんなにくっきりとした山並みを眺められる日は滅多にない。ふつうなら雨かみぞれの暗い空か曇天になる季節で、やがて白いものが落ちてくる。だからこそ、朝 青空が広がっていると、思わず驚きとうれしさで「おおっ!」と口走ってしまう。けれど 数日前から雪が降ってきて、今日あたりは積雪5,6cmに達している。

 さて、写真下は人の営みである。圃場にある用具や施設をうまく活用し、暮らしに利用している。正面のアルミ製台車は、もちろん移動式ダイコン干しではない。出荷用の台車である。ふだん出荷に利用する際はワクの内側に段段をこしらえ、そこにトレイに詰めたポット苗や鉢植えを載せる。

 また 写真左側の切妻から柿がぶら下がっている建物は、開花調整用の冷蔵庫である。時期になれば 何千というアザレアが入庫し、やがて出庫される。こうした風景から、家庭の温もりや堅実な生活ぶりが伝わってくる。

こうした穏やかな風景が拝めると 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(129) 百両金(カラタチバナ)-其の四

カラタチバナ

 写真は百両金「麒麟錦(きりんにしき)」である。一見したところ 奇妙な化け物みたいだが、観察するとダイナミックで複雑な葉芸なのだ。

 葉がうねったり巻き上がったり、その縁がギザギザに波打ったり、鮮やかな斑も入ったり・・・。知らない人が見ると、ウィルスにでも侵された植物のように受け取るかも知れない。筆者も初めて目にした時にはそう思った。

 しかし、ある愛好家向けの雑誌には、この麒麟錦が“雷雲をつかむような激しい迫力を感じさせる稀代の銘品”と称賛されていた。

 ところで 親しい栽培家に聞いたところ、この‘銘品’には秘話があった。「麒麟錦」はいったん途絶えたらしい。しかし、関係者の努力で復活させたのだという。それによれば、戦後「麒麟錦」の現物がまったく無くなった。それで栽培者や愛好家の間では、「幻の麒麟錦」と言われるようになった。だが幸運だったのは、その親の品種が分かっていたこと。また、新潟に偶然その白黒写真が残されていたことである。

 島根ではそれらを手がかりにして、その実生苗から再び「麒麟錦」を蘇らそうと、栽培に励んだ人々がいた。そして 何度も実生の育苗・選抜を繰り返すうちに、再び生み出すことが出来たのだという。

 実(み)はほとんど付けない。愛好家でも見た人は稀にしかいないという。まあ これだけの葉芸で十分なのかも知れない。

 さて、これまで紹介して来た百両金はごく一部である。けれども、それらが独特の植物世界を展開すること、また何百年もかかって伝統園芸の中から生み出されて来たこと、こうした点には改めて驚く。

やっぱり伝統園芸植物もあって 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(128) 百済寺(ひゃくさいじ)

百済寺1

百済寺2

 写真は「百済寺(ひゃくさいじ)」である。先月 京都・滋賀方面に出張した折、立ち寄った。滋賀県東近江市(旧愛東町)にある古刹である。学生時代も含め、訪ねるのは3度目だと思う。

 写真上は本坊である「喜見院」の見事な庭園である。ちょうどモミジが色づき始めた頃だった。また写真下は、その庭園の頂上部にある展望台から眺めた湖東方面である。ここで最も気に入っている場所である。  

 下の写真を拡大すると、屋根のはるか奥で霞がかかった辺りが琵琶湖である。また その先でうっすらとなだらかな稜線を左右に引いている山が比叡山だ。また、右端の低い山が安土城が築かれていた安土山である。

 この百済寺は近隣の「西明寺」,「金剛輪寺」と共に、湖東三山と呼ばれている。いずれも天台宗寺院である。この百済寺は近年訪れる人も多くなっているようだ。そのせいか境内の説明板も増えている。ただ あちこちに立てられていて、少し興ざめする部分もある。

 ところで、この寺院の開基は聖徳太子と伝えられ、渡来した百済人のために建てられたという。近江では最古の寺院らしく、その起源は千数百年は遡れるという。そして 平安から中世にかけて、この山のあちこちに数多くの伽藍を配し、大規模な寺院を営んでいたらしい。けれど その後何度か火災や兵火に会い、焼失と再建を繰り返してきたとされる。

 1573年(天正元年)には、信長の全山焼き討ちにもあった。解説板によれば、安土城の礎石の大部分は信長の軍勢がこの百済寺から持ち出し、築城に利用したとある。ここで安土城跡の記憶が蘇った。

 近江の国のあちこちで歴史を感じさせられ 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(127) 百両金(カラタチバナ)-其の三

百両金(カラタチバナ)-其の三

 写真は「大明出雲達磨(たいみんいずもだるま)」という品種である。ちょっと堅い感じの名前だが、現物はなかなか優美な姿をしている。

 木姿は大らかでスッキリしており、葉は大きく やや捩れて巻き上がる。葉の色は黄緑で、これがいわゆる萌黄色なのだろう。茎や葉柄は独特の赤味を帯びる。葉脈はその影響を受け、それが薄まった赤色に染まる。

 筆者などはこうした葉っぱを目にすると、何やら葉物野菜を連想してしまう。そのせいか、こんな葉っぱなら″おひたし″にしても良さそうに思える。また、実の色はピンクがかった赤と表現すべきか。

 “大明”というのは系統名で、木姿や葉の色合いが写真のように、全体に茶色っぽい赤(赤紫)を帯びる傾向を言う。大明系の中でもこの品種は、葉こそ巻き上がるが、どことなく品が良く女性的な印象を受ける。

 また 品種名にある“出雲”はもちろん出どころを示す。島根県で生れた品種である。参考のために記すと、現在この貴重な百両金を栽培・保存し、品種改良に励んでいるのは新潟県と島根県だけ、と言い切ってもよい状況である。

 そもそも筆者が この百両金を面白い植物だと思ったきっかけの一つは、重力に逆らって葉が立ち上がることである。葉でこうなる植物は数少ないと思う。勿論そうした性質を持たない、葉が下がる百両金もある。けれど、この「大明出雲達磨」も、(122)号で紹介した「黄竜錦」も葉が巻き上がる。この葉が巻き上がるというのも葉芸の一つなのだという。実に面白い植物だと思う。

奥が深くてよう分からんが、魅力に富む百両金の世界。これがあれば 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(126) タキイ秋期農場研修会

タキイ農場研修会

タキイ農場研修会2

 写真は上・下とも、タキイ種苗㈱の農場研修会の1コマだ。滋賀県湖南市(旧甲西町)にある同社の研究農場で、お得意様向けに催される事業である。

 この日は好天に恵まれた。70haという広大な敷地のあちこちに野菜や花、それに資材まで展示されていた。

 野菜類の多くは、栽培場所の一角で収穫された現物が並べられていた。一方、花卉類は農場西側のエリアで、開花調整されたものがきれいに陳列されていた。新タイプのパンジーやビオラ、矮性タイプの照葉ハボタンなど数多くの新商品が飾られていた。興味を引かれる植物も幾つかあった。

 ところで三十数年前、筆者はこの研究農場に一時お世話になった。というのは、ここには園芸専門学校が併設されている。変則的ながら、そこの花卉科で勉強していたことがあるのだ。

 当時たまたま京都の大学に在籍していたが、それは文科系学部だった。ところが、タキイさんのご好意でここに通わせて頂いた。大学の最終学年の年、週に4,5日早起きをして京都からここまでやって来た。当時の市電,JR,バスを乗り継ぎ、バス停からは徒歩で、片道全体で約1時間半かかった。

 実習が大半だったが、その実習には二つのルールがあった。一つは休憩時以外の私語厳禁。いま一つは、農場で作業場所を移る際の駆け足移動である。長ければ1km前後の距離を、全速力で走るのである。これが辛くて、たいていビリだった。

 勝手気ままに学生生活を送っていた人間が、突然 自衛隊に体験入隊させられたようなものだ。しかし、これが筆者にとっては後々ありがたい肥料になった。

若い時の苦労は買ってでもするもの!だった。 日々好日、日々感謝。 (E.O)

 

(125) 安土城跡-その二

安土城跡-其の一1

安土城跡-其の一2

 写真上は安土山の頂上部に築かれた天主跡である。ここに威容を誇る高層建築があったとは、その知識や詳しい解説板でもなければ想像しにくい。

 当時の面影を留めるのは、周囲の石垣と礎石だけである。礎石は当時のまま1.2mおきに整然と並んでいる。現在 表れているこの地盤は、天主の地階部分にあたるのだという。この上に五層七階の壮麗な天主が建っていたわけだ。

 再建された天主も無ければ、こぎれいな解説板もない。だから ここに佇んでいると、かえって豊かな想像ができる。目を閉じると、大河ドラマのような情景が描ける。・・・信長が後ろ手を組みながら城下を見下ろし、何やら策を練っている・・・。

 ところで この天主、調べていくと 幾つもの建築上の大きな特徴を持っていることが分かってくる。ウィキペディアにも詳しく載っているので、興味のある方はそちらへ。

 さて 写真下の眺めは、石垣の上から琵琶湖方面を望んだものである。現在はこのように平野の向うに琵琶湖が見える。だが、この平野はその後の干拓によって陸地化されたものだ。だから、信長が眺めた天主からの景観は現在とかなり違っていたらしい。当時、城の周囲は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ、南の方面だけが開けていたという。

 最期に記すが、この城の運命のことである。安土城の落城はあっけなかった。「本能寺の変」後まもなくして、この天主などを一夜のうちに焼失した。天主完成からわずか三年後の天正十年(1582年)のことである。その火事の原因については諸説あり、不明である。 

また訪ねてみたい所があるから 日々好日、日々感謝。 (E.O)