(276) モンゴル日記(6)

モンゴル日記

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【冬のテレルジ⑥  モンゴル式さいころ占い】

 ゲルキャンプに到着して、しばしクラブハウスのレストランで休憩していた。ソリが二つ足りなかったからだ。それをクラブハウスの従業員が準備する間のことである。

 誰かがこれを借りてきた。そして、3人がこのモンゴル式さいころ“シャガイ”をはじめた。写真上である。この四個の物体を片手で転がすのだ。その度に、写真下の英語で書かれた表を覗きこんで、一喜一憂していた。うんっ?さいころに似てるなァ。

 最初、この四個の材質が何なのか、見当がつかなかった。しかし 観察すると、動物の骨?らしいことに気づいた。これまでモンゴルを何度も訪れているが、今まで見たことがなかった。だいたい、このシャガイという伝統的な遊び道具があることも知らなかった。親友Bさんによれば、それは羊のくるぶしの骨だという。

 この骨の面を4種類に分け、振って出たそれらの目の組み合わせで判断するというものらしい。ちょうど日本のさいころのように、振ってゲームで用いたり、おはじき遊びのように使うのだそうだ。これは帰国してからインターネットで検索してみたら、詳しく出ていた。けれど 彼らは、四個のシャガイでゲームではなく占いをやり出した、ということなのだ。

 そのうち筆者にも声がかかり、振ってみた。筆者の出目の解説は、写真下の中ほど“You will hear good news”であった。結局これは半分当たり、半分は外れた、と思っている。その理由は後述する。

㊟これは「社外秘」。 日々好日、日々感謝。 (K.M)

(275) モンゴル日記(5)

モンゴル日記

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【冬のテレルジ⑤  モンゴルの親友】

 写真上は、モンゴルの話にはいつも登場する、あのおなじみの親友Bさんである。筆者にとって、いまや通訳・案内役から、モンゴルでの相談相手まで引き受けてもらっている。彼がいるから、モンゴル事業をここまで進めることができた。だから、とても大切な人である。大柄で身長は190cm前後はあろう。体重は本人によれば、99.99kgだという。だが、家族はその数字を信じていない。

 彼はもともと優秀で、かつての社会主義モンゴルの時代には国費留学生だった。そして 、あのレーニンが籍を置いたカザン大学(ロシア)に学び、そこを卒業。しかし、当時は旧ソ連の崩壊過程に入った頃で、モンゴルもその深刻な影響を受けたという。だから、その混乱時代にはたいへんな苦労を重ねたらしい。

 その後 来日し、新潟県に親子で移り住んだ。奥さんともども働きながら国際大学や新潟大学で学び、娘さんは7歳のときから県内の小・中・高で学んだ。その彼女はハキハキしていて、同世代の日本人より日本語の語彙が豊富で、表現力もすばらしい。現在は米国に留学中である。ただ気の毒にも、一家で中越地震と中越沖地震をともに経験している。

 だから、Bさんは日本人の心にも通じている。つまり、モンゴルの人たちの物の考え方や感性、そして日本人の持つそれら、その両方を知っている。この点も、彼が頼りになる理由である。

 なお写真下は、筆者である。服装を見れば、日・蒙の別がすぐお分かりになると思う。

モンゴルにも良い友がいて 日々好日、日々感謝。 (K.M)

(274) モンゴル日記(4)

モンゴル日記

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【冬のテレルジ④  4人の“ソリスト”】

 写真はゲルキャンプに到着してから、みんなで始めたソリ遊びのときの2枚である。もう夕方で、辺りはしだいに薄暗くなってきていた。

 写真上は、筆者(中央)と二人の同行者である。この時にはB氏が撮影役にまわったので、写っていない。左側はJさんで、おととしの魚釣りでも一緒だった。今回 聞いた話だが、彼はかつてモンゴル警察のSWATの隊員だったそうだ。たしかに体格はよい。また、右側はエヘガザル社=D社長の兄Uさんだ。

 写真下で、滑り降りてくるのは筆者。正直のところ、はじめのうちは気が進まなかった。なぜなら、大のおとながソリ遊びなんて という思いと、傾斜がそれほど緩やかでなく、斜面の長さも200,300mはあったろう。だから、怖い気持ちもあった。

 それで、はじめは3人の滑りを見ていた。彼らはまったく無邪気に、途中でひっくり返っては笑い、じょうずに下まで滑り終えては はしゃいだ。それを眺めていて、「オレも滑ろう!」。それに、日本人はソリ遊びもできないのか、と思われるのはシャクだ。日本人の勇敢さを見せてやる?!

 最初のうちは、斜面の途中から滑り降りた。けれど 慣れるにしたがって、より上の方から滑走した。スピードはおそらく時速50kmくらいは出ていたと思う。また、スピードを落とそうと思ったら、足のかかとをブレーキ代わりに雪面に強く押しつければよい、ということも学んだ。結局、とても楽しかった。

原始的な能力を呼び覚ましてくれるモンゴル? 日々好日、日々感謝。 (K.M)

 

(273) モンゴル日記(3)

朝日の詩

【冬のテレルジ③  朝日のファンタジー】

 こんな面白い写真ができ上がるとは思っていなかった。同心円状に虹のような光の輪が、昇る朝日を囲んで写っていた!驚ろき、そして喜んだ。ただ プロの人や写真に詳しい人には、当たり前のことなのかもしれないが。

 今回の滞在時に撮影した写真のなかで、これは最も気にいった一枚である。カメラに関する知識はほとんどないが、筆者にすれば偶然にも生まれた「作品」なのだ。クラブハウスの従業員たちもまだ起きてこない夜明け前から、筆者は外に出たり入ったりしていた。それは前号で書いたとおりである。これは、その後に撮ったものである。

 ようやく太陽がその輝きを伴い、姿を見せた直後のこと。「目を傷めないかなァ」と、それが正しいのかどうか分からなかったが、心配だったのでカメラを持った腕を伸ばした。そうして目とカメラをできるだけ離し、クラブハウスのレストランの窓越しに、朝日に向かってシャッターを押した。時刻は午前8時29分。

 写真には、手前に植栽された樹木や、その先にコテージ群も写っている。昨年の夏、B氏と共にこのキャンプを訪れてゲルに泊まった。その時には、アジア系,欧米系の両方の人々が4,5組は滞在していた。しかし今回、客は筆者たち4人だけである。だから、事実上は貸し切りであった。まあ、もともとここのオーナーは親友B氏の友達だと聞いていたが。

 撮影を終えてコーヒーをすすっていたら、他の3人もようやく起きだしてきた。

冬のテレルジの朝、意外な写真が撮れて 日々好日、日々感謝。 (K.M)

(272) モンゴル日記(2)

モンゴル日記

【冬のテレルジ②  夜明け前のゲルキャンプ】

 夜の暗闇がわずかづつ明るさを帯びてくる。そうして、風景が日の出に向かって微妙に変化を遂げていく。その光景をクラブハウスから外に出たり入ったりしながら、楽しんだ。しかし 気温が―30℃近くに下がっていたから、外に10分とはいられない。この時、生まれてはじめてまつ毛が凍る体験もした。現地時間で朝の6時過ぎから始まったドラマである。

 写真について語ろう。ほの明るい天空には月がまだ残っていて、日の出前の太陽が山並みをシルエットに仕立ててくれていた。その麓に見え る二つの白い小さな点は、遠くの別のゲルキャンプの灯りである。星々が夜空の舞台を去ってまもなく、こんなに豪華な風景と時間に立ち会えるのだ。

 日本にいて、 夜明けそのものに感動するなんてことは、ほとんど経験しない。けれど、モンゴルの山野に泊まると、こうした醍醐味を味わえる。筆者は過去に何度か経験している。この日の深遠な夜明けも、きっと一生忘れないだろう。

 ところで、この国の大自然の中で見る星空の美しさは、ときどき語られる。じっさい前夜には二度も外に出て、満天の星々に感激した。その夜の星空は、モンゴル人のB氏さえも「すごい!」と唸ったほどだ。けれど、この地で目にする月も美しく、趣きが深い。写真の中では、三日月が風景にアクセントを添えて、すばらしい。

 なお写真を拡大して、PCの明度を上げたり、映像の角度を変えてもらうと、手前に立ち並ぶゲルがほのかに見えてくる。

冬のテレルジでも 日々好日、日々感謝。 (K.M)

(271) モンゴル日記(1)

モンゴル日記

モンゴル日記

【冬のテレルジ①  白い別世界】

 おとといの夜、ウランバートルから戻った。今回は、新潟発着のインチョン経由でモンゴルを往復した。それが結果的には、これまで経験したことのないドラマティックな外国旅行にさせた。それに関しては後述するとしよう。

 行きは新潟からインチョンまで順調に飛行。また そこからウランバートル便への乗り継ぎも、時間がなくて少し慌てたが、同じ大韓航空の便なので何とか乗れた。その後もトラブルなく、順調にウランバートル着。そして空港 出口で待ってくれていたモンゴルの親友Bさんにはすぐ会えた。ここからモンゴル滞在は始まり、ほぼ順調に物事は進んで行った。そして、大きな成果も得られた。

 ところで、写真はモンゴルで最も有名な景勝地テレルジである。滞在3日目にここを訪れた。写真上は、クラブハウス側から撮った10基のゲルである。また 下はそのゲルキャンプの全景である。ゲルの上に見えるのはコテージで、6戸ある。そして、ゲルの左側にある大きな建物がクラブハウス。今回は寒さでとてもゲルには泊まれず、ここで夜を過ごした。

 テレルジについては以前にも書いたことがある(ブログ90号)。あれは夏のテレルジだった。今回は冬。あの山野草の花畑もまったく無いし、放牧家畜たちにも出会わない。寒冷と白銀の世界である。しかし 澄んだ空気や、降るがごとくの星々、それに月も太陽もすばらしい朝の姿を見せてくれた。心が透き通っていく音が聞こえた。

テレルジではやっぱりこうした気持ちになって来る・・・日々超好日、日々超感謝。 (K.M)

 

(270) 斑入りヒサカキ

斑入りヒサカキ

斑入りヒサカキ

 写真は「残雪」と名付けられた斑入りヒサカキである。筆者は初めて見た。植物の多くには、やはり“斑入り”という形質のものが出現するようだ。

 積雪で外が白い時に、この鉢植えを温室の中で目にすると、名前のせいもあるのか、ちょっと不思議な感覚がする。また 遠くから見ると、さほどきれいには思えなかった。しかし 近づいて観察すると、葉には白っぽい斑とうすい黄色の斑が入り、一枚一枚の模様も違っていて、これはこれで美しい。

 また名前も悪くない。葉に表れる斑の模様からすれば、イメージ的には適切だろう。ところで、葉の斑入りという点以外はヒサカキと変わらないらしい。だから 葉は常緑の小葉で、花も小さい白い花、実も黒紫だという。

 この「残雪」は6号鉢で、樹高35cm,葉張り40cmほど。持ち主にお聞きすると、挿し木用の親木だったものらしい。挿し木で、15年生くらいということだった。だから、安くはなかったらしい。

 ヒサカキの分布は、本州から南西諸島,小笠原,朝鮮半島南部にかけてとされる。そして、この「残雪」も日本産らしいが、詳しい素性は分からない。突然変異なのだろう。一応念のために『園芸植物大事典』(小学館)をあたったら、園芸的な栽培品として二行ほど記載があった。和名はフイリヒサカキ、学名はEurya japonica ‘Variegata’(エウリア・ヤポニカ・ヴァリエガータ)とされていた。ヒサカキの変わりものと言えよう。

人間でも変わり者はいる。だからこそ、シャバの多様性が保たれて 日々好日、日々感謝。 (K.M)

 

(269) 丸岡城②

丸岡城

丸岡城

  写真上は天守三階から丸岡の南部方面を望んだもの、 写真下はその三階の内部の様子で、正面奥に後述する階段の補助ロープも見える。

 やや急な石段を上って、天守の内部に入る。建築の規模からしても、中は当然広くない。それに一階から二階に上がる階段は、かなり急である。さらに二階から三階に上がる階段は、勾配が急なだけでなく幅が狭い。一人づつしか上がれない。だから、いずれにも補助のロープが取り付けられている。

 とは言え、天守の中は歴史を身近に感じさせる空間である。この城がたどってきた長い時間、あるいはここで日々を過ごしたり、出入りした人々のことに思いが至る。

 ところで一般的に、城は防衛・軍事上の機能はもちろん(後に薄らぐが)、それらの究極的な目的である地域の安定統治のための拠点であっただろう。そうした点で天守閣には、城主が自分の治める城下・地域を常に眺め、それによって健全な統治者意識を保つ、といった役割があったのではないかと思う。

 さて近年、城を失ったかつての城下町では、地域おこしや地域振興の目的で、その復元をめざす動きが少なくない。それは全国的な流れでもあるようだ。そこには城を復元した暁には、それを名所,旧跡として観光に活用しようという考えがあるのだろう。それのみならず、その地域が自らのアイデンティティの象徴として、心の拠点としてわが城を蘇らせようという、精神的な運動にも通じるようにも思える。今のような時代だからこそ、そうした意味は大きいのではなかろうか。

城にはシロウトだが、日々好日、日々感謝。 (K.M)

(268) 丸岡城①

丸岡城

丸岡城

 魅力のある城である。天守閣は丘の上に建てられていて、小ぶりだけれども風格がある。それは全国に現存する最古のものとされる(一部に異論もあるらしいが)。現在、国の重要文化財に指定されている。

 筆者にとって、交通の面ではこの城は立ち寄りやすい。というのは、たまに行き来する北陸道の丸岡ICから近いのだ。ICを出てから10分もかからない。北陸道でこのあたりを通るたびに、上りでも下りでも小山の上にこの天守が小さく見える。その度に、訪れたいと思っていた。それで昨年やっと寄った。

 だから、この城を訪ねるのは二度目である。ただ 前回は暖かい時期だった。それに、“城ガール”とおぼしき女性ともすれ違った。それに対し、今回は厳しい寒波が到来していた時である。上の写真で、雪を少しかぶった屋根も風情を感じさせるが、雪を頭にのせた石垣の石もその輪郭を表していて美しかった。来訪者には3組すれ違った。城ガールには会わなかった。

 ところで 下の写真は、駐車場広場に建てられていた、昔の丸岡城の絵図である。かつてはその敷地も広く、周囲を堀に囲まれていた。そして 二つの門を構え、本丸や二の丸も建築されていた。また、堀の外にも三の丸や武家屋敷が配置されていたらしい。どうしてどうして、立派な城と城周りだったと思われる。豪壮とか、絢爛という形容は似つかわしくないが、ちまちまとして整然たる城郭だったようである。

古城は存在していることで歴史を示している。日々好日、日々感謝。 (K.M)

【なお、今日より真冬のモンゴル訪問です。行って来まーす。】

(267) 伏見稲荷②

伏見稲荷

伏見稲荷

 上の写真は、外拝殿(手前)とその奥の内拝殿である。一番奥に本殿があるが、見えない。また下の写真は、内拝殿の前面である。ちゃんと賽銭箱になっていた!

 最近、年に一度は参拝に来ている。しかし、この横長の賽銭箱は今まで気づかなかった。この内拝殿の前面に作られている、いわば“全面(前面)賽銭箱”である!これならば、参拝者がどこに居ても、その正面でお賽銭を受け止めることができる。神様の面前で、思わず「おおっ!こういう仕掛けか」と口走ってしまった。

 さらには、妄想を続けた。・・・仮に200万人の参拝客があるとして、最低でも100円は出すわなァ。そうすると、200万人×100円で2億円!いや中には一万円札を投げ入れる、気前のよい人もいるからプラスαで2憶数千万円か・・・。勝手に失礼な胸算用をしていた。後で調べてみたら、こちらの初詣の参拝者数は近畿地方では最多で、270万人に達するという(2012年 三が日)。

 しかし こんな事を考えていたせいか、報いはちゃんとやって来た。例年の通り、本殿で参拝した後におみくじを引いた。筒をガラガラといわせて、引き出した竹串の数字は十二番。その番号のおみくじを頂いて開いてみると、何と「凶後吉」であった!

 ただし “凶”とだけ書かずに、“後吉”と付け加えるところは配慮がなされているようで、「さすが!」と思わせる点だった。要は、しばらく言動に自重せよ、という意味であると勝手に解釈した。

稲荷様で初めて引いた、良くないおみくじだった!日々好日、とは限らないが、日々感謝。 (K.M)