仙台出張の帰リには、川崎町の支倉にも寄った。江戸時代の初め、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに渡った支倉常長と縁の深い土地である。訪ねたのは今回で二度目だ。
彼には以前から興味を抱いていた。1613年、常長は主君=伊達正宗の命でスペイン人宣教師らと共に月の浦港(現 石巻市)を出帆。太平洋を横断しメキシコ経由でヨーロッパに渡り、スペイン王そしてローマ法王にも謁見した。その後 彼は数年間ヨーロッパに滞在、1620年日本に戻った。壮挙ともいうべき任務を果たし、無事帰国したのだが、世は大きく変わっていた。キリシタン弾圧である。そうした時代状況のなか、キリスト教に改宗していた彼は、帰国して二年後 失意のうちに故郷で生涯を閉じた。
彼についてはこうした見方が一般的であり、歴史上の悲劇的な人物とされている。しかし以前から、遣欧使節団の真の目的,中級武士の支倉が使節団長に選ばれた理由,三ヶ所もある彼の墓所など、謎は少なくない。
皮相な見方は避けたいが、彼は時代に翻弄されながらも数奇な運命を見事に生き抜いた人物だったように思える。(この点については機会があれば述べたい。)
ところで 常長の墓所は前述の通り、他にも二説ある。しかし、この支倉という山里が最もふさわしいように思う。上の写真は支倉の古刹=円福寺にある彼の墓所とされる敷地に建てられた、町教育委員会の追悼文である。また下の写真は、彼の居城といわれた上楯城跡から見下ろした支倉の里の風景である。
歴史上の人物の面影に触れて 日々好日、日々感謝。 (E.O)

