(195) ネコの忠告

出入りのネコ1

出入りのネコ2

  おい園芸屋のおやじ、変な姿は撮らんでくれよ。上の写真はおいらの可愛らしさと凛々しさが表れていて良いけど、下のぶざまな寝姿はいけないよ。猫にも肖像権はあるんだぜ。

 だけど、今の時期アスファルトの上っていうのは気持ちがいい。早朝とか、昼間でも日陰の場所なんか悪くないネ。あんたもおいらと一緒に試してみたらどう?

 ところで、おいらは自由人みたいな飼い猫だ。だから 行く所がなくて、あんたの家に寄るんじゃないよ。そうじゃなくて、あんたのために時々来てやってるんだぜ。なぜか、あんたの事が気になるんだよ。ナニ,おまえに言われたってしょうがない?人間が小さい!たまには猫の忠告に耳を傾けろよ。

 おいらは願ってるのさ、来年には還暦を迎えるあんたが度量をもう少し大きくすることを。だいたい“キレる中高年”なんて見っともないぜ。まァあんたは、生来の猫嫌いじゃなさそうだし、最近はおいらのことを追っかけ回さない。猫が言うのも変だが、少しは人間が出来てきたようだ。

 実を言うと、おいらが行く所なんてあちこちあるんだ。両隣はもちろん、三軒向うのSさんも時々餌も出してくれる。それにおいらはモテルんだぜ三毛猫のみけ子,シャムネコ系のシャミー,黒猫のみどりちゃんetc. どうだ羨ましいか、おやじ。

 それはともかく、おやじ、こうしたおいらの心情を少しは察してくれよ。だいたいその年になってもまだ猫心と女心が読めなきゃ、人生これ以降も苦労するよ。そいじゃ、また。ニャーネ!

・・・猫の世界でも 日々好日、日々感謝・・・∽∬∋ ? (E.O)

(194) デルフィニウム物語②

デルフィニュウム写真・画像-2

 デルフィニウムは三十数年前から知っていた。それはタキイの園芸専門学校に通っていた時に覚えた、数少ない花の一つだからだ。当時すでに花卉科で育種していたように記憶している。

 この一鉢も苗から育てたデルフィニウムである。前回紹介したものと同様で、タキイのF1オーロラシリーズの“ディープパープル”という品種である。こちらの花色は、引き込まれるような妖しい濃い紫だった。

 ただ こうした高性のデルフィニウムは花穂が長く、花が多く付いて頭が重くなる。だから 少し風が吹くと、鉢植えなので倒れた。それを何回起こしてやったことか。美しいものは倒れやすい?

 ところで デルフィニウムの品種改良が、欧米を中心に長い歴史を持っていることは前回述べた。もともとの分布域はヨーロッパ,西アジア,北アメリカ,アフリカであり、200余りの原種が知られている。そして それらを基礎にして、どんどん園芸化が図られた。とくに第二次大戦後は大いに改良が進んだという。その結果、現在まで生み出された園芸品種は4,000を超えているのだそうだ。

 なお近縁のラークスパー(Consolida)とは、花の構造が少し違う。けれど大雑把に言えば、一年草のデルフィニウムと言ってもいいのだろう。現在の和名ではラークスパーがヒエンソウ(飛燕草)、デルフィニウムがオオヒエンソウ(大飛燕草)である。

 さて、うちの事務所前に飾った二鉢のデルフィニウムは、役目を終えて2週間ほど前に片付けられた。

青い花 求めて 育種に精を出し 。日々好日、日々感謝。 (E.O)

(193) デルフィニウム物語①

デルフィニュウム写真・画像-1

 デルフィニウムの鉢植えである。ただし、写真のバックも青系で申し訳ない。

 この花は主に切花用か花壇用に使われる。だが、これはうちでプラグ苗を鉢に植えて育てた。商品としてではなく展示用にである。それで、二分咲きのころ農場から事務所に持ってきたのである。

 写真は先月中旬に撮影したもので、この時はまだ五分咲きだった。花穂の下の方から咲き始め、頂上の最終の一花が咲いたのは先月29日。そして、今月に入っても咲き続けていた。だから、1ヶ月以上は楽しめた。

 これはタキイのF1オーロラシリーズの“ブルーインプ”という品種である。派手な色合いではないものの、渋みを帯びた微妙な青である。豪華な大輪八重咲きで、花茎には数多くの蕾が付いていた。全部で50個くらいは数えた。

 このデルフィニウムは青系のあらゆる色調を持つという。ところで先日、新潟県とサントリーが共同で青いユリを開発したという報道がなされた。その評価は別にして、青というのはやはり花好きにはたまらない色彩の一つなのだろう。なぜなら、青色が中心のこのデルフィニウムは、園芸史的には英国,フランスそしてアメリカなどで300年にわたって品種改良がなされてきたという。

 日本には戦前から何度も導入されたが、定着しなかったらしい。その理由は、もともと涼しく乾燥気味の気候を好むこの花が、日本の梅雨と蒸し暑い夏には適わなかったということらしい。だが 最近は新品種や栽培情報の提供等によって、事情が変わってきている。

空、海、デルフィニウム・・・ 日々青日、日々感動。 (E。O)

(192) 日食に出会った花

日食に出会った花

 写真はアンセミスである。品種は「スザンネイ・ミッチェル」という。もともとはヨーロッパの山野や畑地で普通に生えている植物らしい。キク科の宿根草で、わが家では外の物干し場の前で育っている。

 株はほぼ円形に整い、直径は約1mにもなった。草丈は40,50cmどまり。ひじょうに多花性で、花と蕾を数えたら100個以上は付いていた。花が咲き始めてからだいぶ経っても、次から次へと開いてきた。配偶者が昨年、10.5cmポットの一株を地におろしたのだ。そうしたら今年はもうこんな大株になった。施肥を含め、とくに世話を焼いたという事もなかった。

 ところで、ちょうど一ヶ月前の先月21日。マスコミが盛り上げ役となって、ニッポン全国 日食騒ぎの観があった。当地では皆既日食とまではいかなかったが、太陽が五分の四くらいは隠れた。写真はその日食の最中、このアンセミスの株に再び陽光が射して来た場面である。少し分かりづらいかもしれないが、株の手前の中ほどあたりが少し明るくなっている。後方の花や葉はまだ陰っている。よーくご覧になると、その微妙な明暗がお分かりになると思う。

 ただ、あっという間にその天体現象は終わってしまった。けれど、このスザンネイ・ミッチェルの花は終わらなかった。6月の第三週に入ってもまだ咲き続けていた。しかし先週、再び咲かせるために配偶者によって切り戻しされた。

 アンセミスは耐寒性もあり、強健な植物である。過湿にさえ気をつければよい。

日食と言うと、どうも昔の列車食堂も思い出してしまう。日々好日、日々感謝。 (E.O)

(191) 玉杉

玉杉1

玉杉

 写真は山形県の山五十川(やまいらがわ)の「玉杉」(たますぎ)である。国の天然記念物の巨木である。

 昔と大違いで、山五十川への道路状況が格段に良くなった。延伸した日本海東北道の「いらがわIC」で降りたら、10分足らずで玉杉への登り口に着いた。ここを訪れるのは今回で3度目になる。

 最初に訪れたのは四十代前半。現在のように玉杉への階段がきれいに整備されてはいなかった。この時はまず、巨大な存在感に圧倒された。見上げて驚き、そして唸った。強い印象と畏敬の念を抱いて帰った。

 2度目は十年ほど前だが、訪ねたのは夕方で雨降りだった。あたりは薄暗くなってきて、来訪者は筆者一人だった。この巨大杉の下をゆっくりと回っていたら、重々しい空気が流れて来て、しばし金しばりに会ったように立ち尽くしていた。不気味とも違う不思議な体験だった。

 高さ40m,目通り幹周り10m,根元周囲22mに及び、推定樹齢は1500年といわれている。とにかく大きさも歴史も けた外れなのである。

 ところで 玉杉は遠くからでも認識できる。下の写真で中央上部、杉山の上の方に周囲の杉と姿が異なる大木らしきものが見える。白っぽい曲がった太枝も突き出している。これが玉杉である。普通の杉の木のように円錐形にならず、樹冠部が丸っこく玉状になるのでこの名が付いたらしい。

 県内外から多くの人が来訪するようだ。階段登り口の小屋にある芳名帳のページを繰ると、首都圏からの人たちも少なくない。

この玉杉に接すると、大いなる心を授かるようで 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(190) 月山の春景色

月山の春

 写真は山形自動車道の月山湖(がっさんこ)PAから撮影したものだ。残雪の山並みはもちろん月山である。仙台からの帰り、山形県内には1ケ所だけ寄ることにした。その途中で出会った景観である。

 クルマで山形に入るのは2009年秋以来だが、ちょっと驚いた。山形県の人には失礼かもしれないが、山形県内の高速道路網がかなり整備され便利になったように思う。まだ 全通とは言えないものの山形道,東北中央道,それに日本海東北道が着実に建設されつつあると感じた。

 なかでも日本海東北道が、これほど南に延伸されていたとは知らなかった。あとわずかで新潟県側のICと結ばれるのだろう。

 今や高速道路網は災害時の救助・支援活動から物資の輸送,物流,観光,人の移動といった面で、なくてはならないインフラである。この点は今回の大震災で改めて認識されたのではないか。また地域住民の緊急道路としても、もっと評価されていいと思う。

 ところで 月山湖というのは人造湖である。山形県内で最大規模の寒河江ダムによって、川がせき止められたダム湖なのだ。その畔に造られた月山湖PA(下り線)からは、天気が良かったので月山の頂上部が望めた。そのなだらかな美しい山容や流れる雲を眺めていたら、気分がしだいに軽くなってきた。

 この後、残雪と新緑の「月山道路」(国道112号BP)を抜けながら、3月に開通区間が伸びたばかりの日本海東北道に乗る。そして、次なる目的地の山五十川(やまいらがわ)に向った。

美しい景色は良質の気分と時間を与えてくれて 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(189) 支倉(はせくら)の里

支倉の里1

支倉の里2

 仙台出張の帰リには、川崎町の支倉にも寄った。江戸時代の初め、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに渡った支倉常長と縁の深い土地である。訪ねたのは今回で二度目だ。

 彼には以前から興味を抱いていた。1613年、常長は主君=伊達正宗の命でスペイン人宣教師らと共に月の浦港(現 石巻市)を出帆。太平洋を横断しメキシコ経由でヨーロッパに渡り、スペイン王そしてローマ法王にも謁見した。その後 彼は数年間ヨーロッパに滞在、1620年日本に戻った。壮挙ともいうべき任務を果たし、無事帰国したのだが、世は大きく変わっていた。キリシタン弾圧である。そうした時代状況のなか、キリスト教に改宗していた彼は、帰国して二年後 失意のうちに故郷で生涯を閉じた。

 彼についてはこうした見方が一般的であり、歴史上の悲劇的な人物とされている。しかし以前から、遣欧使節団の真の目的,中級武士の支倉が使節団長に選ばれた理由,三ヶ所もある彼の墓所など、謎は少なくない。

 皮相な見方は避けたいが、彼は時代に翻弄されながらも数奇な運命を見事に生き抜いた人物だったように思える。(この点については機会があれば述べたい。)

 ところで 常長の墓所は前述の通り、他にも二説ある。しかし、この支倉という山里が最もふさわしいように思う。上の写真は支倉の古刹=円福寺にある彼の墓所とされる敷地に建てられた、町教育委員会の追悼文である。また下の写真は、彼の居城といわれた上楯城跡から見下ろした支倉の里の風景である。

歴史上の人物の面影に触れて 日々好日、日々感謝。 (E.O) 

(188) 被災地に立って

被災地に立って

 先月下旬に仙台へ出張した。翌日、帰路の途中で同じ宮城県内の亘理町を訪ねた。大震災による津波被災地の一つである。同町は仙台市の南にある名取市や岩沼市のさらに南側に位置する。町の北側を阿武隈川が流れ、東は太平洋に面している。

 以前から漠然とは考えていた…“日本人として”機会があったなら被災地を訪れ、惨状の一端でも目にしなければと。土曜日でもあったので、行くことに決めた。以前に何度か報道された同町の荒浜地区を訪ねることにした。

 仙台のホテルを出発し目的地に近づいて行くと、稲や野菜が全く作られていない田畑が延々と広がってきた。おそらく津波で海水が入り、作付けは望めないのだろう。

 カーナビに導かれながら、やがて海と陸側を隔てる堤防にぶつかった。その堤防を上がると、阿武隈川の河口が広がっていた。どうやら荒浜地区に入ったらしい。その堤防自体が暫定復旧工事中で、それを覆ったブルーシートが帯状に何キロも伸びていた。それに沿って南下する。人家や商店は並んでいるのだが、人の姿が見えない。車とはすれ違わない。朝の9時前だった。

 さらに車を進めて行くと、しだいに視界がひらけてきた。遮るものが無いのである。目の前には、家々が忽然と消えたと思われる平地が現われた。家の基礎だけがかろうじて残ってはいる。しかし、その上の建築物が跡形もなく失われている。何十戸,何百戸だろう、立っていたはずの家々が無い。残った人家はぽつんぽつんと一,二軒はあるものの、どこかしら壊れていたり傾いている。住む人の気配はない。ほぼ見渡す限り異様な光景である。今まで味わったことのない無力感からかショックからなのか、しばらくそこを動けなかった。

 あの3月11日まで、そこには人々の暮らしが根づいていたはずだ。それぞれの家族が集まり、一家の団欒があり、温かい家庭が営まれていたことだろう。それぞれの幸せが灯っていたに違いない。それが一瞬にして押し流され、失われてしまったのだ。

 筆者は報道写真家でもないし、研究者でもない。あの廃墟とも言うべき場所に立ったとき、シャッターを押せなかった。本当にそんな気が起きてこなかったのである。何とか撮影できたのが、この1枚だけである。かつての庭の跡だろうか、死者や被災者を慰めるようにアヤメの花が咲いていた。

 この地を去ろうとしたとき、集落跡の一角に裸のお地蔵様を見つけた。上屋は流されたのだろう、無かった。「万人子安地蔵尊」と書かれた標柱が立てられており、筆者にはそのお地蔵様に手を合わせることくらいしか出来なかった。

今回は語ることなし。 (E.O)

(187) わが家のエビネ

わが家のエビネ写真・画像

 写真は自宅の裏庭で今年も咲いてくれたエビネである。ここに植えてから、もう7,8年は経つだろうか。

 4月末には花茎が立ちあがり、5月10日頃から花が咲いてきた。その後 花の色はさすがに褪せたが、つい先日まで花茎は立っていた。が、今月2日にとうとう折れた。ふつうのエビネ(Calanthe discolor)で地味な色合いだったが、何とも言えない高貴な風情を漂わせていた。

 この業界に入りたての頃。ランの仲間であるエビネやシュンランなどは、高価で入手しにくいという先入観を持っていた。それである時 機会ができて、愛好家からシュンランの自生地に連れて行ったもらったことがある。そこで、その姿を目にした時には本当に感激した。

 変な話ではあるが、園芸店の店頭にある植物が、自然の中で自然に生えていることに驚いた。しかし、考えてみれば当たり前のことなのだ。事実は全く逆なのである。基本的には自然界から採取したものを育て、観賞し始めたわけである。花の咲く野生植物を人の手によって栽培し出したところから、花卉園芸が成立したわけであろう。

 では、なぜ人はそうした行為を始めたのだろうか。きっと 美しい花を咲かせる植物を身近な所で育てたい、そういう強い願望からだろう。

 ところで このエビネがきれいだった時には、毎日見に行った。この株の隣で、若い三株が元気に伸び出していたこともあったからである。それは配偶者が昨年 誤って草取り中に切ったものだったので、うれしかった。

身近な所で咲くべき花が咲いて 日々好日、日々感謝。 (E.O)

(186) マイヅルソウ

マイズルソウ

マイズルソウ

 可愛らしい白い花が、密生した葉の間から顔を出している。マイヅルソウである。

 ハート形をしたその葉はやや照葉で美しい。草丈は15cmほどで、花の大きさは数ミリだろうか。開花前は丸っこい小さな蕾をしている。開くと花弁は4枚だが、細部は虫メガネで見ないと分からないほどだ。4枚の花弁というのはユリ科植物では異例だという。その花弁は開花が進んでくると、後に反り返ってくる。そして 秋には赤い実を付け、しだいに茶色っぽくなり、年内に落下する。

 以前紹介した栽培名人のKさんが、今から10年前にポット苗4株を浅鉢に植え込んだのだそうだ。それがしっかりと根付いて、今ではこんな大株に生長した。それで今回、久々に植替えをすることを思い立ったという。たまたま その場にお邪魔した。今年はいつになく花の付きが良いらしい。

 地下茎がネットのように密にまわって、実にたくましい。根鉢がくずれない。可憐や清楚といった形容を連想させる植物だが、こうした力強さも備えているところが面白い。

 ところで、マイヅルソウのMaianthemum(マイアンテムム)という属名は、風変わりな名前だと思った。しかし、ラテン語のMaius(5月)とanthemon(花)が組み合わされたもので、5月の花という意味らしい。いたって正当な意味だった。

 和名についてはマイヅルソウは舞鶴草であり、その由来は葉脈の曲がり方が鶴の羽に似るからという。これはかの牧野富太郎氏の説である。異説もある。

名前には優雅さ、花には可憐さが表れて 日々好日、日々感謝。 (E.O)