(668) モンゴル日記(383)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて131 】

 筆者たちの後から、元気なオフロード車の集団が追いかけてきて追い越していった。以前触れたが、こうして同じ車種や似た車種でグループを組み、山野を走りまわるツアーが最近モンゴルでは盛んになってきているらしい。

 そんなグループを見ていると、イメージが膨らむ。つまり先祖が偉大な騎馬民族で,一時ははるかヨーロッパにまで遠征した人々である。その末裔たちの民族的DNAが騒ぎ出し,馬をオフロード車に乗り換えて山野を駆けめぐる。これは以前にも書いたかもしれないが、そんな理解となる。

 ともあれ,そうしたオフロード車の軍団にときどき追い抜かれながらも、筆者たちの4台は進んだ。来た時と同様に、筆者はB氏のXトレイルの助手席に座っていた。そして、しばらくはアクシデントもトラブルもなく順調だった。

 上・下の写真は、そうした集団のひとつが筆者たちの後からやって来て,やがて追い越して行った姿だ。車種はみなジープのようだった。上の写真はそのグループの最後尾車がやって来たところ。最後尾とはいうが、こいつは上り坂をガンガン飛ばして来た。筆者たちはしぜんにそのクルマに道を譲る。通り過ぎる際,感謝の意味か助手席の女性が左手を挙げ、過ぎて行った。そして彼らはまもなくグループに合流し(下の写真)、小休憩をとってから再びスタートしていった。

 順調な滑り出し、マナー良き通過人。 (K.M)

(666) モンゴル日記(381)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて129 】

 あの二つの川の合流場所から,ひとりでキャンプに戻ってきた。途中 牛の水浴びも眺めながら、無事に帰還。今宵がダルハッド・バレーで過ごす最後の夜となった。いつもながら7時頃だというのに、外はまだ明るい。ところで,戻って早々あの牛の行動についてB氏に報告し尋ねたら、「暑ければ牛も川に入るよ」と,驚きの反応は全く示さなかった。

 ところで上の写真は例の城砦だが、改めて眺めると迫力がある。景観としても,地質や歴史の点でも貴重だと思う。日本ならきっと名所旧跡になろう。でもこれが見納めとなるかも知れない。あすこの地を離れると思うせいか、ちょっと感傷的になっただろうか。

 さて下の写真は、夕食準備の1シーンだ。今回の夕食の調理人はBa氏。彼は料理の腕がいちばんと言われている。ひと通り準備は済んだようだ。が,まだ強い日差しを避けて、皆が日かげに逃げ込んでいる。ただ男性軍はアルコールがすでに入っていた。

 ところで,キャンプでは食事作りがいつもひと仕事だ。しかしB氏ら4人の間では,その担当調理者を事前に決めておく。そして誰でも気持ちよく引き受ける。また担当でない場合でも、他の人は様々な手伝いをする。これはどんな場合も変わらなかった。だから筆者も何度か経験をしていた。

 レンチンルフンブ村も今日が最後、明日は一路ウランバートルめざし♫ (とは,ならなかった?!)

(656) モンゴル日記(371)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて119 】

 あちこち歩き回っていたとき、何の気なしに向こう側を眺めた。おっ,岸辺のボートに人が寄っている!どうやら迎えに来るようだ。しかし,ひとりだけ?B氏は来ないの?どうやら管理人のお兄さんしかやって来ないようだった。まァいいや。とにかく対岸に戻れればいい。

 で,それに乗ろうと、”花園”を離れて岸辺に近づいていった。相棒のJ君はすでに気づいていた。と,岸辺近くの斜面で足もとに見覚えのある小さな植物があちこちに点在していた。うーん,なんて言ったっけアレアレ・・・。還暦を過ぎてから数年が経った。植物名がなかなか浮かんでこない時がある。ひょっとしてMCI(軽度認知障害)だろうか?

 でも思い出した。あれだ!日本のイチヤクソウの仲間だ。彼らはあたかも針葉樹の落ち葉とコケをベッドにするようにして、ゆるい集合を形成していた。

 下の写真は右岸に戻る最中のボートだ。約束の時間よりだいぶ遅いお迎えとなった。オールをこぐ相棒 J君の顔は、戻るうれしさときつい日差しを避けるために、言うならばウレシ・マブシイ表情となっていた。(ドリカムの歌で”うれし恥ずかし朝帰り”というフレーズがあるがそんな複雑な表情・・・でもないか#)

 筆者は結局この川渡りでは、何もしなかった。これがホントのオールorナッシング。

 うれし恥ずかしアサ帰り、うれし腹ペコ キャンプ帰り♪♪ (K.M)

(652) モンゴル日記(367)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて115 】

 森の中にはこうしたシランの群落があちこちにあった。その時はそれを単純に喜んだ。しかし後で,せっかく遭遇したシランの見せ方としては全くヘタで、こうやって同じ構図の写真を上・下に並べるとは芸のないことをしたなァ、と反省しながらこの号を書く。

 それはさておき,針葉樹の森林はここでは東の方より、西の方に展開されていた。東側は岩が多くて樹林が形成されないのだろう。写真はいずれも東の方から西の方に向かって撮影したものだ。ご覧の通り,西側は奥が見通せないほどの森となっていた。

 さて上の写真のJ君について語ろう。彼はもちろんモンゴル人だが、ふだんはチェコに住んでいるという。勤務先はプラハのブティックだとのこと。販売ではなく、何か企画開発的な部門にいるらしい。

 こうした例はあるようで、東欧で働くモンゴルの人が時々いるのだ。兄弟姉妹があちらで働いていてナーダム(夏祭り)などに帰って来る例を知っている。だいたいJ君がそれだ。かつての社会主義国同士で、東欧諸国とは関係が深いのだ。

 さてJ君は男兄弟3人の真ん中だという。 兄上は医療関係の仕事でカリフォルニアで生活しているらしい。また弟さんは東京に住んでいるという。けっこうインターナショナルな兄弟なのだ。

 なお蛇足ながら、下の写真は日本人だ。そう筆者である。

 ときどき東欧の話題、ときどき日本の話題。 (K.M)

(651) モンゴル日記(366)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて114 】

 さて左岸に渡った。岸辺に抽水植物などが全くない右岸と違い、こちらにはヨシやガマの仲間が水際からビッシリと生えていた。だから船首を岸に寄せることができず、浅瀬で船を降りざるを得なかった。数日前この茂みの中にヨシキリのような姿を目撃したのだが・・・。

 さて船を降りた筆者とJ君は、キャンプのある対岸の方を振りかえった。1時間後に迎えに来てもらうことにした。それで乗って来たボートが去って行って行く。そして,向こう岸では8人のメンバーがこちらを眺めていた。上の写真の構図である。

 こうした光景を眺めていたら、”置いていかれた”ような錯覚を覚えた。やがて,ちょっと侘しい心境になる。何だか島流しの流人のよう・・・。J君はどんな気持ちなのだろう?! けれどそれも束の間、岸から斜面を上って平地に出ると、多くの花々が筆者たちを迎えてくれた。これは予想外のうれしい出来事で、これが気分転換のきっかけとなった。

 下の写真のように、まず目に飛び込んできたのは青い花だった。これは日本でいうと,おそらくフウロソウの仲間だと思う。この青い花の背後で、赤い蕾を付けているのがヤナギランだった。これはこの北モンゴルの山地,草原でときどき見かけた。しかし,ここのヤナギランは他所では見られないほど、広い面積であちこちに群落を形成していた。

 対岸に花あり、対岸に潤いあり。 (K.M)

(649) モンゴル日記(364)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて112 】

 さらば城砦!筆者たち3人は足もとに注意を払いながら下った。上の写真は岩が積まれた”石垣”を下りていく場面だ。山の下りは、上りよりは気を使わなくてはいけない。慎重さが求められる。筆者も若い頃、新潟地方の山々をけっこう登った。だから,この原則は知っている。

 ところで右側の人物はB氏で、さすがの彼も一歩一歩ゆっくりと下りて行った。何せ彼は身長190㎝以上、体重の方も楽に100kg以上はあるらしい。が,他人に尋ねられると100kg以下と答えるようだが。一方,もうひとりの相棒J氏はすでにこの”石垣”を過ぎていた。こんなとき J氏はいつも早い。それに対して,筆者はいつも遅い。写真をあちこちで撮るからだ。ただ,この城砦ではその多くが風景となった。

 写真下は”石垣”を降りてから、振り返って見た城砦の風景である。しばらく眺めていたら一瞬,奇妙な感覚に襲われた・・・どこからか,兵士たちのどよめきが聞こえたような気がしたのだ!ン?!

 そうして,少しセンチメンタルな気持ちにも陥った・・・再びこの地に来れないかもなァ。この城砦もまた訪れることもないだろうなァ。さらには・・・どうして今おれはここにいるんだろう?  と,この国でたまに抱く例の不思議な気持ちにとらわれていた。と,「おいてくよ、シャチョー!」、大きな声が聞こえた。

ときどき錯覚、ときどき思索。 (K.M)

(647) モンゴル日記(362)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて110 】

北モンゴル最奥部を訪ねて110

 上の写真はここでのいわば記念写真。頼まれてB氏とJ氏のツーショットを撮った。二人の背景には、ちょうど流れ雲,草原,テングス川,そして国境の山々が入った。奥行きを感じさせ、筆者としてはピンボケもない良質な写真となった。

 この2人に、キャンプに残っているT氏を加えた3人は、もう数十年来の付き合いらしい。彼らはそもそも留学生仲間だった。3人は旧ソ連時代にモンゴルの国費留学生として、名門カザン大学に学ぶ。この大学は革命家レーニンが学んでいたことでも有名だったが、彼は結局,放校処分にあったらしい。レーニンとは全く関係ないが、実はB氏のきれいな奥さんもカザン大学留学生組だったようだ。なーるほど。

 それはともかく、この留学生仲間という絆は固いようだ。そして,モンゴルの色んな分野で彼らの仲間が活躍しているらしい。B氏のそうした友人たちに、筆者も何度か紹介された経験がある。

 さて下の写真だ。この城砦の低い草地には、この花があちこちで咲いていた。湿り気のある草むらで、突き出したように伸びていた。草丈は40,50㎝、おそらくシソ科のオドリコソウの仲間かと思われる。この花、この北モンゴルではあちこちで見かけた。日本種よりは大きいように感じる。前述したかも知れないが、シソ科植物は北モンゴルでは多く分布しているようだ。

 日々 仲間、日々 絆。 (K.M)

(642) モンゴル日記(357)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて105 】

北モンゴル最奥部を訪ねて105

 この日は暑かった。日中は間違いなく30℃は越していただろう。ただ湿度が低いので不快感はない。しかし,日差しはけっこう強い。時刻はもう夕方6時なのだが。

 さて洗濯後の散歩で、シシケッド川の岸辺を歩いていた。川風が気持ちよく感じられた。と,上流に向かっていくと、川で用事を足している家族らしき人たちに出くわした。たぶん筆者たちのツーリストキャンプの隣組?の一家だろう。彼らは夏場だけだろうが、ゲルを設営して遊牧生活を送っている。

 その父親と息子らしき男の子は、水着をはいて川の中に入っていた。また母親と娘らしい女の子は、岸辺で何か作業をしていたように見えた。母親の後ろにある白い容器はポリタンクのようだった。煮沸して飲料水としてでも使うのだろうか。

 散歩を終え、キャンプに戻る。そうしたら,親友B氏が「シャチョー,胃腸薬持ってませんか?」。頑健そのものの大男が、か細い声で問うてきた。それで,たまたま日本から持って来ていた漢方の胃腸薬を渡す。どうせ飲み過ぎだろう。幸い,翌朝には彼はシャキッとしていた。治ったようだった。

 さて下の写真。時刻は午後8時ころ。キャンプの小屋の陰で、ご覧のように黒い犬が横になっていた。彼は暑さには弱いらしく、筆者がそばに寄ってもほとんど反応を示さなかった。

 この後,いっとき強い風雨に見舞われた。日々夏日、でも日々変化。 (K.M)

(640) モンゴル日記(355)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて103 】

 いわば難所を越えたので、再び筆者は馬に乗った(乗せられた?)。上の写真の右側には、さっき通って来た両側の絶壁が覗いている。写真の二人はM嬢とJ君だ。しばし言葉を交わしていたようだ。その彼女も手綱さばきは達者のように見えた。それが間違いないことは、この後すぐ分かった。

 ところで結局、筆者の歩きは10分間くらいだったろうか。歩くのは岩道でもまったく苦にならない。むしろ,これで今日も万歩計の数字が1万以上には達するだろう。

 岩が混じった緩やかな下り坂は、やがてお馴染みの広大な草原に変わってきた。そして,その彼方には”わがキャンプ”もやっと見えてきた。「おおっ」、ホッとした。下の写真がそうである。

 そのうちにJ君以外の男の子たちは、みな馬を走らせた。意外にもそれに続けとばかり、目の前のM嬢もその白馬を疾駆させるではないか。この写真撮影のすぐ後だ。結局,置いていかれたのはJ君と筆者だけだった。トレーナーにつき従ってきた犬までが去って行った。

 平地になったが、馬を走らせることなど怖くてとてもできない。そんな事をしたら,すぐ落馬するだろうから、ポコポコ歩くしかなかった。でもJ君がつき合ってくれた。ひょっとして彼はモンゴル人とはいえ、乗馬は得意ではないのかも知れない。だけど、そんな事は決して訊かなかった。

やっと我が家、やっと安心。 (K.M)

(639) モンゴル日記(354)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて102 】

 上の写真は筆者を除いたメンバーの6人である。2度目の休憩の際に撮影したものだ。ただ左から2人目は今回のトレーナー役の男性である。彼も若そうで、20歳代だろうか。その左隣の黒ずくめでサングラスをかけた若者が、ときどき馬を疾駆さていた。彼がいちばんの乗り手のように思えた。

 ところで紅一点の女性はT氏の娘さんM嬢だ。分かりやすい英語を話してくれたが、筆者はそれにきちんと答えられるレベルではなかった。けれど,何かと親切で、この休憩のときにも持って来たお菓子を皆に分けてくれた。

 さて,この休憩が終わってから再び進む。と,道がしだいに小石混じりになってくる。やがて両側は崖状になってきた。馬の歩く速度が落ちる。そして右側は断崖絶壁になってきて、まもなく岩の崩落現場のような所が現れた。下の写真がそれである。

 道はかなり岩混じりになってきた。そうしたら、最後尾にいたトレーナー氏が「Stop,stop」と声をかけてきた。それで筆者は手綱を引いて止まる。そうしたら彼は,岩が多くなってきた路面とこの絶壁を指さしながら、「Please down,please down」と言う。危険だから降りろ?それで筆者は指で自分をさしてから、道の方に降りるしぐさをした。それを見てトレーナー氏はうなずいた。

 危険は避けよう、とくに外国では。チョイ降馬、チョイ歩き。 (K.M)