(619) モンゴル日記(334)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて82 】

北モンゴル最奥部を訪ねて82

北モンゴル最奥部を訪ねて82

 今回はモンゴルの屋外トイレのことを述べる。上の写真は筆者たちが寝泊まりしていたツーリストキャンプの全景だ。手前左側の2つの小屋がトイレである。モンゴルの田舎のトイレについては、日本のヤワな女性たちにとっては難物かもしれない。たしか以前にも記したことがある。

 そのうち下の写真が左側のもので、まァ見た目はそれほど悪くはない。しかし、筆者は結局こちらのトイレは試しに1回しか利用しなかった。なぜなら,この便座に腰を下ろしても、つま先が床に着かないのだ。だから,どうも落ち着かない。これが最大の理由。それに筆者は何も敷かずに便座にベタッと座るのは好きではない。

 もちろん水洗などではない。単純落下式で下には深く巨大な箱が掘られている。その巨大な箱を筆者は”闇地獄”と呼んでいるが。かといっても,蠅などは飛びまわらない。また臭いもほとんどしない。ただ下を覗くと、闇地獄のようすが目に入ってくる。だから慣れない人は、下方に目をやらないこと。しかし、その闇地獄に落ちることだけは絶対避けなければならない。ではこのトイレを使わないで、どうやって用を足していたのか?隣のもう一つの開放的な和式トイレを利用していたのだ。

 ところで,これら2つのトイレの右側に地面を矩形に掘ったような跡が見えると思う。これが実は以前のトイレだった場所だ。日々トイレ、日々快便。 (K.M)

(602) モンゴル日記(317)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて65 】

北モンゴル最奥部を訪ねて65

北モンゴル最奥部を訪ねて65

 どういう理由か知らないが,ツーリストキャンプを次の日にはもう変えてしまった。宿泊の関係はB氏の担当だったが、その辺の事情はまったく不明。それに筆者も彼に聞こうとはしなかった。それなりの事情があったのだろうから。

 それで2日目の午後に,はじめのツーリストキャンプを去り、次のキャンプに移った。そして,帰るまでの4日間をそこで過ごす。ただ2つのキャンプは互いに近い位置にあった。だから移動の時間はクルマでわずか1,2分。

 そして2つ目のキャンプも川辺にあった。はじめのツーリストキャンプはテングス川のすぐそば、後のキャンプはシシケッド川の河畔にあった。

 上の写真はその後半のツーリストキャンプである。手前左手2つの小屋はトイレ。その奥の窓がいくつもある大きい2棟がコテジで、そこに3グループが,また筆者とB氏は右の建物の陰になっている小コテジで寝泊まりした。奥の左手の棟はシャワー室と洗面所,洗濯室の入った共用施設である。ここに4グループが分散し、4日間を過ごした。

 さて下の写真はシシケッド川である。テングス川に比べて、水量が多く水深もあった。だから流速は遅い。また,川底は泥土のようだった。このシシケッド川は釣り人こそ近づかなかったものの、さまざまな表情を見せてくれた。

 ここでの4日間は時間を持て余すことがなかった。日々新鮮、日々チョイ感動。 (K.M)

(600) モンゴル日記(315)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて63 】

北モンゴル最奥部を訪ねて63

北モンゴル最奥部を訪ねて63

 「北モンゴル最奥部を訪ねて」というタイトルで、これまで連載してきた。では,その北モンゴル最奥部とはいったい,どのあたりなのか?ということについて述べる。

 上の写真はモンゴル全図で、ある旅行ガイドに付いていた地図の拡大だ。モンゴルの国土は形でいうと、コウモリが羽を広げて飛んでいる姿に似ている、と筆者はとらえている。カッコウの悪い姿だが、それに則って説明すると,左の翼が西部、右の翼が東部。そしていわば頭部にあたるのが北モンゴルである。

 参考までに説明すると、この地図で上部(北部)がロシア。右側(東側)から下部(南側)にかけてが中国。その大半が内蒙古自治区になっている。とは言え、そこだけで日本の3倍ほどの面積を持つ。またそうした名称にもかかわらず、同自治区の現在の人口比率は民族的には漢民族が圧倒的であり、モンゴル民族はもう20%を切っているらしい。

 ところで上の地図で矢印の先が、滞在したツーリストキャンプのだいたいの位置。また,それをもっと詳細に示したのが、下の写真の地図である。こちらの矢印はよりいっそう正確な位置を示したものだ。お分かりの通り、やはり最果ての地なのだ。

 ウランバートルに戻ってきたら、「モンゴル人でもあまり行かない所に、カタオカさんよく行ってきましたね」、とビジネスパートナーはからかった?! 日々ビックリ、日々驚き。 (K.M)

(592) モンゴル日記(307)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて55 】

20161217-09

 北モンゴル最奥部を訪ねて55

 「いやぁ,助かった!」・・・目に入った村の風景を見てホッとした(上の写真)。「ケガをしなくてよかったねェ!!」。「そうですねー」。実はこの少し前,危うく事故を起こしそうになった。

 それというのは,湖岸沿いの道路を走って来た筆者たちのXトレイルが、スピードを落とさずに道路の上り坂を駆け上がった。ところが,その先が急な下り坂になっていたのだ!!それで,一瞬 飛んだ!!

 その結果,勢いがよかったので、ドツーンという感じで落っこちた!!その衝撃はなかなかのものだった。B氏も筆者も数秒は何が起きたか分からなかった。・・・「危なかったですねー」。

 クルマをすぐ止めて、いま乗り越えてきた道路を振り返った。そこは坂なのだが、そのピークはまるでノコギリの刃の山のようだった!!それとは知らず、そこを勢いよく走って来たのだ。もちろん警告の道路標識などはどこにも無かった。・・・二人で思った・・・シートベルトのおかげでしょうかね,と。

 ところで,写真のサガンヌール湖に面している集落はサガンヌール村といった。かなり大きな集落らしく、戸数は数十ではきかないくらいに思えた。うす暗くなりかけていたが、村人に聞き聞きしてガソリンスタンドを探す。その途中,メンバーには若い連中も少なくなかったので、清涼飲料水も買い求め皆に配給した。

日々危うかった、日々助かった。 (K.M)

(587) モンゴル日記(302)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて50 】

北モンゴル最奥部を訪ねて50 -009

北モンゴル最奥部を訪ねて50 -010

 この危うそうな橋を筆者たちが渡ることがなければ、上の写真のようにのんびりした高原の橋の風景だった。しかし,筆者たちはここを渡って先に進まなければならなかった。

 まず4台のクルマから運転手以外の人たちが降りる。そして橋を歩いて渡った。この点は(563)号で書いたのと同様である。その後,最初にBa氏が運転するランドクルーザーがゆっくりと渡った。続いてB氏のXトレイル,T氏のプラド。そして,しんがりはJ氏が運転するレクサスだった。

 下の写真はランドクルーザーが渡った後に続く3台である。橋の下の流れは勢いがよく、落ちたら深刻な状況になることは想像がついた。筆者は渡りおわった左岸側から、息を凝らして3台を見守っていた。・・・「ふーっ」、何事もなく全車が渡り終えた。あの”屏風岩”の橋の時より緊張した。水量と川幅、そして橋の様子があの時より不安だったからだ。

 実はこの橋、帰路でも渡らざるを得なかった。 しかしその際は,水量はだいぶ減っていたのに簡単には渡れなかった。なぜなら,こちら側に地元自治体の役人2人が待機していて、橋を渡るならお金を払ってくれというのだ。日本では聞いたことのない話だ!

 彼らが言うには、今回の大水で橋が傷み、修理をしなければならない。そこでその費用に充てるので、協力をしてほしいというのだった。日々ビックリ、日々想定外。 (K.M)

(586) モンゴル日記(301)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて49 】

北モンゴル最奥部を訪ねて49-007

北モンゴル最奥部を訪ねて49-008

 トラブルやアクシデントに会わない,のどかな走行がしばらく続いていた。しかし,やがて行く手にこんな構造物が現れた。水が満々と流れている川に、怪しげな橋がかかっていた。以前(563)号で書いた”屏風岩”のあの橋よりも危うい!こちらはオール木製なのだ。

 隊長Ba氏もクルマで渡ることに不安を抱いたようだった。それで,他の運転手3人と一緒に歩いて向こう側(左岸)に行った。とくに彼は橋のあちこちを入念に観察しながら渡った。(上の写真)

 と,そこへオートバイが・・・。地元民らしい男性の二人乗りだった。彼らは二人乗りのまま、その橋をあっさりと渡りきった。すでに渡っていたBa隊長は、向こう側に行った彼らから話を聞き始めたようだった。(下の写真)

 そして,結論を出した。向こう岸で彼は片手を上げた。「渡ろう!」の合図。こういう場合、彼は他の人たちに相談する,あるいは意見を聞く等ということはしない。これまでそうだったし、この場合もそうだった。彼が旅のこと,地理的なことにはいちばん詳しい。そして,彼が下す判断は間違っていないはずだ。このツアーのリーダーに彼は最もふさわしい。だから,彼が決めたことには従おう。そうした認識が皆に徹底していたように思う。

 さあ行動開始!Ba氏とその友人たちから、本物のリーダーシップをかいま見せてもらった。日々選択、日々決断。 (K.M)

(583) モンゴル日記(298)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて46 】

北モンゴル最奥部を訪ねて46-001

北モンゴル最奥部を訪ねて46-002

 隊長Ba氏はあの涸れ川を横断し、タイガにとりつく当初のコースを断念した。そして別の大回りの進路を選んで、さっそく走りはじめた。

 その変更コースを進みだしたら、ほどなく写真上の変な大型自動車に出会った。トラックの荷台を改造して座席にし、その上をすっぽり覆った特製の「観光バス」だった。ただし後輪は4輪。乗客は全て女性だったようで、20人近くは乗っていたろうか。

 どうやら,彼らもこの風光明媚な地を観光で訪れたらしい。しかし,例の河原をこのバスで渡るのを断念し、引き返してきたという。そこでBa氏は「観光バス」の運転手と話をはじめた。

 下の写真は,その時に広がっていた背景である。草原とタイガと山岳で構成された風景。これ自体はやはり美しかった。そして手前から広がる草原と、彼方のタイガの間にはあの涸れ川が流れていた。

 さてBa氏はバスの運転手から、より多くの情報収集を終えたようだった。そして4台が再び移動をはじめた。どうもあのタイガに近づかず、それと並行して進みはじめた。どうやら北上らしかった・・・。

 Ba氏に全て託したメンバーなのだが、不安な表情はさほど見えなかった。その中では筆者がいちばん不安そうな顔つきだったかも知れない。

 新しい目的地に明るいうちにたどり着けるというのは、どうやら望みがうすくなって来た?!  日々変更、日々冒険。 (K.M)

(573) モンゴル日記(288)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて36 】

北モンゴル最奥部を訪ねて36

北モンゴル最奥部を訪ねて36

 引き続き ”13のオボー”について書く。上の写真は左側に並んだ6つのオボーの手前,森の縁に立っていた看板だ。大きな文字はみなモンゴル語で、よう分からん。しかし,メイン看板の左に丸い札が吊り下げられていた。(上の写真)

 そこには”MONGOLIA NATIONAL PROTECTED AREA”と記されていた。ここからは国の保護区域なのである。この森から特別エリアになっているようだ。

 下の写真は親友でありドライバーでもあるB氏とのツーショット。筆者が小柄なので、まるで子供のように見える。彼は身長190㎝,体重90kgの巨漢。だから,こんな図になる。背後の7つのオボーにも負けていない。いや,彼は14番目のオボーと言ってもいいほどだ。

 前号でも書いたが、モンゴルにも十二支が根づいていることは知らなかった。何の影響なのだろう。やはり、歴史あるお隣の大国から伝わって来たのだろうか?

 ところで,B氏が「シャチョーはなに年ですか?」と聞くので、素直に「ヘビ年ですよ」と答えた。けれど「あっそうですか」・・・と,それっきり。「ヘビ年の人はお金がたまると言われてますよ,モンゴルでも」とかなんとか,気の利いた事でも言ってくれるのかと期待したのだが。

ヘビ年だけど、大金はもちろん,中金にも縁がない。でも,あまり困らずに暮らして来れた。日々小金、日々感謝。 (K.M)

(568) モンゴル日記(283)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて31 】

北モンゴル最奥部を訪ねて31

北モンゴル最奥部を訪ねて31

 峠では各人が思い思いに時間を過ごした。まぁ,多くの人は眺望を楽しんでいたが。上の写真で奥に見える尾根上の物体が、前号で紹介した”ヒヒ岩”である。実際,こいつは峠のランドマークのような役割を果たしているようだ。

 ところで,メンバーの誰かが双眼鏡を持って来ていた。それで筆者も覗かせてもらった。そのレンズを通した眺めは美しい映像のようで、催促されなければ何分でも見ていた。

 と,いつの間にか、オートバイに乗った男女がそばにやって来ていた。そして男性は腰に下げていたケースの中から、これまた双眼鏡を取り出して、遠くを眺めはじめたではないか。

 一方 下の写真である。後ろの座席に乗った女性は防風のためだろう、顔をマフラーですっぽり覆っていた。そして,この近くで採ったらしいアリウム(ネギ類)を束にして持っていた。興味を覚え、彼女に尋ねた。通訳はもちろんBさんだ。

 「それは食べるのですか?」「ええ、そう」「生で食べるの?」「いいえ、炒めて食べるわ」「その花も食べるわけ?」「もちろん。今夜の食卓に出すの。おいしいわよ。良かったら,あなたに少しやるわよ」・・・ここでBさん「シャチョー、もらっておきなさいよ」。ということで、数本頂いた。

 感じのよい二人だった。きっと夫婦だろう。子供が3人くらいいる、幸せな家庭生活が想像された。日々良き出会い、日々良き人々。 (K.M)

(564) モンゴル日記(279)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて27 】

北モンゴル最奥部を訪ねて27

北モンゴル最奥部を訪ねて27

 上の写真は前号で書いたあの橋を渡った側、つまり右岸側の小さな集落である。戸数は10戸もない。しかし,この集落にはレストランが二つもあった。ちょっとビックリ。お客がそれだけいる?! まァ,レストランといっても村の食堂といった風情なのだが。

 さて時刻は午後2時、日本なら昼食はもう過ぎている時間だった。筆者たち一行14人がランチをとろうと、その一つに飛び込んだ。すると,先客がすでにあること、食材がそれだけ揃わないことを理由に断られた。それでもう一つの方に行ってみる。

 幸いにも? こちらのレストランはお客が誰もいなかった。しかし,ここの主人も筆者たちの人数を見て、少し躊躇したようだった。食材の量が心配になったのかも知れない。しかし,何とか引き受けてもらい、ここで全員がランチをとった。それは簡単なモンゴル食だったが。

 さて下の写真である。この馬は地域で最優秀に選ばれ、ナーダム(夏祭り)に参加する名誉ある一頭なのだそうだ。近々この地域のナーダムが行なわれるので、その競馬部門に他の何頭かと出走するという。それでその名誉を、馬体に巻きつけたモンゴル国旗で表しているのだそうだ。なおこの後,偶然にもその練習風景をかいま見ることができた。

この次の集落に立ち寄ったのは給油のためで、真っ暗になった9時間後だった。目的地、まだまだ先だ,まだ遠い。 (K.M)

【号外】NHKが再放送!(559)号で紹介したアネハヅルに関するテレビ放送『アネハヅル 驚異のヒマラヤ越えを追う』⇒10月17日(月)午後8時~ NHK BSプレミアム