(638) モンゴル日記(353)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて101 】

 テングス川の河畔から離れ、今度は山越えのコースに入る。進路はすっかり山中だが、あたりは明るかった。進むにつれ、針葉樹の立ち枯れが目につくようになってきた。既出(566)号で述べたように、これらも樹木の幹を食い荒らす削孔虫の被害だろうか。

 ところで写真は2枚ともぶれている。どうやら筆者の心中を表わしていたようだ。つまりズーッと不安が去らなかった。少しづつ強くなってきた尻の痛みと、落馬への恐怖である。

 上の写真で赤いジャンパーを着て、白馬に跨っている男性はJ君といった。彼はメンバーのどなたかの親戚で、今回たまたまプラハから帰って来ていて、誘われたからついて来たという。好青年で筆者と何となく波長が合った。また彼は筆者のヘタな英語でも理解しようとしてくれた。それで後日、彼と二人でシシケッド川を船で渡る経験もした。さて?この写真の下端には筆者の馬の頭の先っぽが写ってしまっている!

 筆者は常にビリだったが、馬上にいた時はこのJ君の赤ジャンパーを自然に追っかけていたように思う。ところで,下の写真は筆者の乗った駄馬?いやいや迷馬の頭部である。とにかくこの馬、山道に入ってから突然止まって草・葉を食べだすことが増えた。だから,乗っている時はもう余裕がなくなって、周りの植物などには目がいかなかった。あー,休憩がほしい。

常に緊張、常に余裕なし。 (K.M)、

(637) モンゴル日記(352)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて100 】

 写真の上・下とも、テングス川河畔の林の中だ。ここで皆が馬から降りて、最初の休憩をとった。誰かがドリンク類を携えてきたようで配給された。筆者もミネラルウォーターをもらう。

 休憩にはホッとした。まず馬上の緊張感から解放されるから。そして,始まっていた尻のヒリヒリ感が薄れるからだ。尾てい骨のすぐ下、尻の端の両側部分が少し痛みだしてきたのだ。ふだん刺激を受けない尻の後ろ部分を、鞍の上でカパッと開く。そして,そこに乗馬による上下動が加わり、絶えず刺激を受ける。すると,ヒリヒリ感が生まれ、やがて痛みに変わる。まァ一言でいうと、乗り方が下手なのだろう。

 さて下の写真だが、手綱をつながれた2頭のうち正面の方が筆者の馬だ。同行者には日本語を話す人が誰もおらず、この馬の癖などはもちろん教えてもらっていない。けれどこの馬、なかなか手こずった。

 というのは、この若そうな馬はエサをちゃんと食べて来なかったのだろうか。進路沿いに,エサになる草や葉を見つけると、突然止まる!そして,それを頭を動かしながら喰いはじめるのだった。これが怖い!とくに頭を大きく下げたりされると、こっちは慌てる。とっさに落ちまいとして、体をのけぞらせ両足を鐙で踏ん張って、手綱をしっかりつかむ。これが何度あったか。

 結局,この馬に舐められていたのだろうか。日々モンモン、日々悶々。 (K.M)

(636) モンゴル日記(351)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて99 】

 上の写真は引きつづき、テングス川左岸を上って行くメンバーだ。ちょっとボケた映像か?! ともあれ彼らは危なげない。日本で言えば、小学校低学年の頃から乗馬を経験しているんだもの。

 下の写真は、川岸コースを外れて山越えのコースに向かうところだ。彼らの中には馬を駆けさせる者まであらわれた。

 それに対して、こっちは生まれて2度目の乗馬体験。最初の経験もやはりこのモンゴルで。前述したが、6年前の国立公園テレルジでのこと。その際はBさんがズーッと一緒だというので、チャレンジした。そして,馬を降りる直前までは何も起きなかった。

 時間が来て,終点で筆者が降りようとした時、アクシデントが起きた。後ろから追っかけてきたB氏の跨る馬が、目の前でつんのめった。と,B氏が馬から落とされた!それに気づいた筆者の馬が、仲間に一大事が,と思ったか、落ち着きを失い、暴れ出したのだ!いや,こっちはあせった!しかし,すぐ傍らにいたトレーナー氏が馬を落ち着かせ、馬を降りることができた。B氏の馬が転倒した原因は、草原に針金が隠れていてそれに足を引っかけたらしい。

 さて,今回はそのB氏が同行しないから、トレーナーに頼るしかない。彼は「トレーナーによくお願いしておいたから大丈夫ですよ」。・・・何がダイジョウブだというのか。しょうがない、スタートした。

常に緊張、常に手に汗。 (K.M)

(635) モンゴル日記(350)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて98 】

 乗馬は気が進まなかった。が,11時過ぎにはトレーナーと共に7頭の馬たちがやって来た。結局メンバーは若者5人と筆者という顔合わせになった。もちろん若者たちは乗馬に馴れたモンゴル人である。

 それに対して、こっちは日本人。生まれて2度目の乗馬でしかない。それも高齢者に近づいている。思えば最初の経験もやはりこのモンゴルでだった。それは6年前のこと。落馬こそしなかったものの、緊張の数時間だった。その時に教わったことをひとつだけ覚えていた・・・馬の後ろ側には行くな!蹴られるかもしれないからである。

 モンゴル馬はアラブ系などより小形だという。だから足の短い筆者などには向いていると思う。でも乗る際も降りる際もトレーナーの手を必要とした。ただし,彼は日本語を解さないから身ぶり手ぶりだ。見送る立場のB氏は、「シャチョー、ダイジョウブ,ダイジョウブ」。何が大丈夫なのか・・・。とは言え、ともかく手綱を離さず,鞍を両足できつく挟んで出発した。でも常に筆者が最後尾だった。

 下の写真の風景は、少し乗りなれてちょっと余裕ができた瞬間に,馬上から撮ったものだ。この川岸をしばらく上って行くのだ。美しいテングスの清流だったが、それを観賞する余裕などほとんどなかった。とにかく落馬しないようにするのが精いっぱい!

 馬上では緊張しっぱなし。時々あぶら汗、時々ケツ痛。 (K.M)

(633) モンゴル日記(348)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて96 】

 北モンゴル最奥部を訪ねて96

 北モンゴル最奥部を訪ねて96

 まず上の写真。空は快晴ではなかったが、山々は美しかった。国境沿いに連なる例の山並みである。正面から見ていると,あまり分からなかったが、右側(北側)にも峰々を引き連れている。手前の低い山々,そして奥の連山・・・三列,四列に山並みが重なり、奥行きを感じさせる。この撮影場所はツーリストキャンプから西に進んだ所だ。

 右側のオレンジ色の屋根を含む住居群が、筆者たちが最初に泊まったツーリストキャンプなのだ。夜中に到着しながら、結局一泊だけしかしなかったところだ。まァそれについてはB氏がお詫びを兼ねて、滞在中に伺ったようだが。やはり筆者が知らない事情もあったようだ。ご主人が病気持ちらしいということも、あとで聞いた。

 ところで,下の写真である。この奥地にやって来た別グループの人々が去って行く様子である。土ぼこりをあげながら、5,6台が通り過ぎて行った。最初はビックリした、こんな奥までやって来る人々が他にもいることに。彼らはオフロード車を駆って、わざわざ悪路を通るらしい。何やら冒険スポーツみたいなのだ。B氏の話によると、こうしたグループは同じ車種の者どうしがやることが多いという。そう言われれば、このグループも日本車と思われる同じ車種だったように見えた。

 結局,こうしたグループ3組が筆者たちのキャンプ前を疾駆していった。日々ビックリ、日々たまげ。 (K.M)

(629) モンゴル日記(344)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて92 】

北モンゴル最奥部を訪ねて92

北モンゴル最奥部を訪ねて92

 写真上はご覧の通り、ヤマハのオートバイだ。この”環ポリおじさん”の大事なアシ。排気量は200ccらしく、AG200と記されていた。実は,筆者も若い頃オートバイに跨っていた。それもヤマハ製。それは当時もっとも大きな排気量(350㏄)のトレールだった。2サイクル単気筒という特異なエンジンで、その吹き上がりはすごかった。はじめの加速がとてもするどく、強烈なスピード感があった。

 そんなことを”環ポリおじさん”に話したら、彼は大喜びをした。そして,握手を求めてきた。そして彼はヤマハを褒めたたえるのだった。後日,参考までにWikipediaでヤマハのAGシリーズのことを調べる。それによれば,このAGというのは農業Agricultureの頭文字で、牛追いや干し草の運搬などを想定して開発されたとあった。そして,この車種はオーストラリアなどに輸出販売されているらしい。

 ところで,喜んでくれた彼に水を差すと悪いから,「山の斜面でひっくり返った体験をしたので、バイクは卒業した。」とは言い出せなかった。気の小さいニホンジンなのだ。

 彼が帰るときに、若手がツーショットを撮ってくれた。それが下の写真だ。こうして二人を見ると、服装こそ違え,顔も肌の色も似てるわなァ。やはり系統的にはどこかで繋がっているのだろう、日本人とモンゴル人は。

 日々実感、日々体感。 (K.M)

(626) モンゴル日記(341)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて89 】

北モンゴル最奥部を訪ねて89

北モンゴル最奥部を訪ねて89

 件の”環ポリおじさん”が持って来た解説板や冊子を、みなが回覧し始めた。解説文はモンゴル語のため全く読めなかった。が,写真はよいものが多く、また頑丈な装丁だった。その中でまず気に入った写真が上・下だ。

 上の写真はそのなかの,ある冊子の表紙の下半分だ。この地方独特の美しい風景である。湖沼,河川,樹林そして雪を頂く連山。どうやら,今回のツアーの当初の目的地がこの写真の地域だったらしい。ああ,行きたかった!ただ,この表紙に貼られたテープやあちこちの傷みは、かなりの回覧者数と年数を感じさせた。そして、彼の仕事熱心さのようなものも感じさせた。

 一方,下の写真は1ページ全面の、トナカイたちの渡河のようすである。彼らは泳ぐのだ!かつて『ダーウィンが来た!』で、単独で海を泳ぐシカを見たことがある。が,ふつう鹿たちは泳がない(泳げない?)と思う。奈良公園のシカが池で泳いだ,なんて話は聞いたことがない。しかし,この写真のトナカイたちは群れで川を泳ぎ渡るのだ。ビックリした。そして,その美しい風景に見入った。

 ところで,この下の写真、時期はおそらく秋ごろだろう。なぜなら,川の中の抽水植物が枯れ始めている。それに対岸の岸辺のおそらくヤナギ類の紅葉?,また一部針葉樹の黄葉も見られるからだ。

 一度はトナカイの渡河を実際に見てみたいものだ。日々刺激、日々新鮮。 (K.M)

(625) モンゴル日記(340)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて88 】

北モンゴル最奥部を訪ねて88

北モンゴル最奥部を訪ねて88

 このキャンプで滞在生活を始めて2日目のこと。昼ごろ,「環境ポリス」の人がやって来た。その「環境ポリス」という表現は、親友B氏が筆者向けに分かりやすく考え出した言葉だ。上の写真で迷彩服を着て帽子をかぶったおじさんである。おそらく日本でいうなら、環境省の自然保護官(レンジャー)みたいな感じかなァ?!

 さて,この”環ポリおじさん”はユニークだった。あちらも,筆者を日本からやって来た変な男だと判断したのかも知れない。いろいろ教えてくれたし、聞いてもきた。彼はこの国立公園内の自然環境はもちろん、終いにはヤマハのことまで語ってくれた。

 最初に,まず彼は乗って来たヤマハのオートバイのところに行き、積んでいた箱を手にして戻ってきた。そして,その中身を広げ出した。それは彼の大切な啓蒙グッズのようで、その中に納められた特製の解説板や冊子をメンバーに回覧しはじめた。下の写真はその一枚だ。見ているのはBa氏。勉強中,その足もとに”ゴールデンゴビ”(モンゴルビール)の缶があるのがまたいい。

 その合間に,彼はこの国立公園の入園料も徴収し出した。しっかりしてるのだ。それに訳が分からないが、筆者は外国人なのでモンゴル人より料金が高いのだという。彼がまじめそうな人物だったので、要求された倍額をはずんだ。そうしたら,たいへん感謝の言葉を頂いた。

日々啓蒙、日々徴収。 (K.M)

(621) モンゴル日記(336)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて84 】

北モンゴル最奥部を訪ねて84

北モンゴル最奥部を訪ねて84

 上の写真は前号で触れた隣り組?の奥さんらしき女性である。通りかかった彼女に向かって、手に持ったカメラのシャッターを押すしぐさをして、”OK?”と打診。すると彼女はにっこり。それで撮らせてもらった。これは今回のツアーで唯一の女性の写真となった。ちょっと緊張したような顔つきだったが、きりっとした良い表情を見せてくれた。

 後日,撮影した写真を拡大してみると、彼女は若そうに見える。おそらく20歳代だろう。彼女は上流のゲルから何かをかごに入れて歩いてきた。撮影後に”Thank you”とお礼を言い、遠ざかる彼女を目で追った。すると,すぐ下流のゲルに入って行った。何か届け物だろうか。ひょっとして彼らは一族なのかもしれない。

 ところで,下の写真はオートバイに乗った男たちだ。これまでなら、おそらくどこかへ行くための移動手段は、まず馬だったろう。しかし、彼らはすでにこのように生活の中でオートバイを乗り回していた。3台のうち前の2台は2人乗り。そして,オートバイのものだけでないようだが、坂道には轍がくっきりと付いていた。

 「遊牧民が馬に乗らずにどうするの?!」と異国人が思ってもしょうがない。彼らには彼らなりの”生活の近代化”があろう。ともあれ,あのオートバイは日本製である可能性が高かった。そのことは後日述べる。

日々日本製品、日々近代化。 (K.M)

(620) モンゴル日記(335)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて83 】

北モンゴル最奥部を訪ねて83

北モンゴル最奥部を訪ねて83

 写真上が、毎朝利用していた原始的な和式トイレだ。立て付けが悪いのか、このドアはピチッとは閉まらない。だから内側から引っ張っても、かなりすき間があいた。もう面倒なので、開けっ放しで用を足すようになった。けれど,こちらの方が開放的で落ち着いた。

 それに筆者は毎朝,早い時刻に起きていたから、誰かとかち合うことはほとんど無かった。たまーに他の誰かが用を足そうとこちらに近づいてきても、けっきょく前号で紹介した隣のトイレに入ったようだ。

 それに,この外がよく見えるトイレに入っていた時には、楽しいシーンに1度遭遇した。目の前の草地をリスたちが忙しげに行ったり来たりしたのだ。そのときは力むのもこらえて、静かーに眺めていた。後で分かったことだが、どうやら彼らは前号で書いたトイレ跡の窪みで生活しているようだった。

 ただ,この和式トイレ、実は2人用だった。内部には仕切りもないのだが、もう1人が入れるような作りになっていた。つまり,隣も写真のように床板を1枚外してあって、人が跨ぐようになっていた。さすがに誰も入って来たことはなかったが。

 ところで下の写真は用を足したあと向った、朝のシシケッド川だ。爽やかな空気が漂い、あたりは無風で静寂に包まれていた。この後,隣り組の遊牧民一家の奥さんらしき女性が近づいて来た。

 あーっスッキリした!日々快便、日々快朝。 (K.M)