(623) モンゴル日記(338)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて86 】

 北モンゴル最奥部を訪ねて86

 北モンゴル最奥部を訪ねて86

 上・下の写真はこれまで何度か載せてきたが、例の断崖の近景である。その手前の小段に上って撮影したものだ。上が北側,下が南側。小段を除いた岩壁だけだと、高さは20mくらいだろうか。

 遠くから眺めていると、景観としてはそれなりに美しく風情もあった。けれど,こうしてそばに寄ってみると、まさにアバタのような感じ。が,目を凝らすと、それは柱状節理のようだった。太古の昔、火山活動か造山運動によって形成されたものだろうか。

 下の写真つまり南側では、ひょっとしてその節理が崩れつつあるのかも知れない。崖の上部から岩石が崩れ出しているように見える。後日,この裏側(北側)にまわった時は、これよりひどい崩壊を目にした。

 ところでこの断崖,こちら側から眺めていると、とても近寄れないように思っていた。けれど後日,B氏らとアプローチしたら、南側からはアタックできた。それで上まで登ってみる。そうしてB氏が言うように、ただの断崖ではなく城砦でもあったという話を否定する気持ちが薄らいだ。

 なおチョイ調べしたら、この辺つまりモンゴル北部の山岳地帯は今から4億数千年前に最初に海上に姿を現した陸地だという。(『地球の歩き方 モンゴル』) 日本列島よりはるかに古い,永ーい歴史をもつ大地なのだ。

 遥かな時間の流れと空間のなかで感じることは少なくない。日々悠久、日々雄大。 (K.M)

(618) モンゴル日記(333)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて81 】

北モンゴル最奥部を訪ねて81

北モンゴル最奥部を訪ねて81

 ここで拝む朝日は格別だった。深い霧が消え去って、しだいに東の空が明るくなってくる。そして,たちまち日が上る。その間、数十分のドラマだった。だいたい新潟では,こうした日の出はなかなか見ることができない。

 目にする景観のなかで、自然物と人工物との割り合いで言えば、新潟市あたりでもやはり人工物が多めになってくる。人工物を極力避けたいのであれば、やはり山奥などに行くしかないだろう。しかし,北モンゴルのレンチンルフンブ村のこの辺では5組の遊牧民家族のゲルと、筆者たちが寝泊まりするツーリストキャンプ以外はほとんど人工物は見られない。

 モンゴルを訪れたことのある日本人の間では、その星空のすばらしさは比較的知られている。しかし自然景観といえば、それに劣らず月の風景もなかなか情緒に満ちたものだ。それに,この日の出の美しさがある。

 日の出前後の,数分の劇的なドラマもなかなか感動的なのだ。暗い世界から輝く世界へ、あっという間の場面転換なのだ。これもモンゴルの田舎の風景の魅力だ。そもそもこちらでは晴天日が多い。だから,日の出のドラマを見ようと思えば容易にできる。ウランバートルで毎朝日の出を拝むことも兼ね、自宅からザイサンの丘までウオーキングをする友人がいるくらいだもの。

 異郷の風景は目と心の疲れを取り去ってくれる。日々 ストレスゼロ、日々気分転換。 (K.M)

(617) モンゴル日記(332)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて80 】

北モンゴル最奥部を訪ねて80

北モンゴル最奥部を訪ねて80

 薄くなってはきたが、まだ霧が立ち込めるシシケッド川。上の写真は朝の5時54分、下の写真はその15分後だ。上の写真で分かるように、川面からはいぜん霧が立ちのぼっていた。実に幻想的な風景で、こんな時,絵心でもあればなァ・・・。

 そしてこの霧のなか,久しぶりにテツガク的心境になった・・・「おれはどうしてここにいるんだろう」。この国に来て,時たま襲われる意識である。日本にいては,ほとんど経験しない心的状態だ。

 そうした意識が導いたのか、このあと今は亡き親友を思い浮かべた。これは日本では時々あることだった。しかし,モンゴルで思い浮かべることはこれまであまり無かった。彼とは京都時代からの付き合いで、大学卒業後も親しく行ったり来たりしていた。彼はK君といい、たまたま筆者と同じ新潟出身で高校も同じだった。ただ1年後輩だった。けれど大学卒業時には彼の方が先輩となった。が、いつもセンパイと呼んでくれていた。

 筆者が出張などで上京した折には、よく一緒に居酒屋へ行った。そんなとき彼は、「センパイ、モンゴルのビジネスはどうですか?」。いつも気にしてくれていた。彼はいろんな出来事に遭遇しながらも、出世街道に乗る。そして取締役まで手が届きそうになったときに急逝!それは平成20年6月のこと、まだ55歳だった。

 感傷的になった霧の朝。たまにふり返り、たまに追憶。 (K.M)

(616) モンゴル日記(331)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて79 】

北モンゴル最奥部を訪ねて79

北モンゴル最奥部を訪ねて79

 時刻は早朝5時50分過ぎ。たちまち霧がうすくなってきた。そして視界が広がってくる。上の写真のように、もう数十mくらい先が見えるようになってきている。写っている柵はキャンプの北側の部分だ。

 下の写真はキャンプ全体のようすである。撮影記録を見ると、上の写真の1分後なのである。それだけ急速に霧があがっていったのだ。もちろん他のメンバーは誰ひとりまだ起きだして来ない。だいたい遅くまでやっているのだ。オヤジたちは飲みつづけ,若者たちは喋りつづける。筆者は新潟で暮らしている時と同じで、午後10時を過ぎてくると眠気に襲われる。現在モンゴルはサマータイム制を採っているので、日本との時差はない。ただ屋外は日本と比べ物にならないほど遅くまで明るいが。

 さて,こうした霧のなかにいるのは悪くない。独特の空気を感じる。何だか,いっとき別世界に迷い込んだような気さえする。が,まもなくすると雲は浮かんでいるものの、晴天が望めた。

 ちょっと考えてみた。どうしてこんなに深い霧が発生するのか?おそらく,それはシシケッド川とテングス川という二つの河川に挟まれた地形だからだろう。そして,降雨量の少ない土地だからこそ、この霧は植物たちにとっても大切な湿気なのだと思う。

 結局この朝、他のメンバーが起きてきたのは8時近くになってからだった。日々別世界、日々異体験。 (K.M)

(615) モンゴル日記(330)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて78 】

北モンゴル最奥部を訪ねて78

北モンゴル最奥部を訪ねて78

 こちらのキャンプに移動して来て4日目の早朝。正確に述べると6時ちょっと前,こうした幻想的な場面に遭遇した。目を覚ますと、外は深ーい霧があたりを覆っていた。写真上は草原側、写真下はシシケッド川周辺である。

 夕べというか7時間ほど前には、あの虹の出現に感激した。その後に寝て起きたら、この風景だ。北モンゴルの神様は、滅多にやって来ない日本人を歓迎してくれているのだろう。滞在している間に、あれこれ劇的なシーンに会わしてくれる。こちらも異国の,それも最果ての地に来て感動させてもらっている。

 さて,外に出てみると寒い。きっと10℃以下だろう。それでコテジに戻ってオーバーを取って来る。そうしているうちに、霧の風景は秒単位でどんどん変わる。霧は薄くなってきて、明るさもかすかに増してきた。この間、ひょっとしたら数分かもしれない。

 新潟市の自宅周辺でも、年に数回は霧か靄かは分からないが、こうした現象が起きる。おそらくそれは,筆者たちの地域が信濃川,阿賀野川,小阿賀野川の三川に囲まれているからだろう。

 こんなふうに風景を一変させるのは、こうした霧,あるいは積もる雪だ。眠る前と翌朝起きた時の、その風景の変容ぶり!外の風景を劇的に違わせてくれる。その変貌度というか落差感というのは悪くない。現在は生活者だから、大雪だけは困るが。

日々変容、日々驚き。 (K.M)

(612) モンゴル日記(327)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて75 】

北モンゴル最奥部を訪ねて75

北モンゴル最奥部を訪ねて75

 虹がかかった!! 異国の果てで虹を見た! まったく予想もしていなかったことだ。新潟では近ごろあまり目にすることがなかった。そんなこともあったせいか,北モンゴルの空にかかったこの七色の半円に、しばし見惚れていた。虹というのは見る人の心を静かに躍らせるものだ。子供のころは興奮に近い感情を覚えたが。

 今回のこの虹はキャンプの近くで発生したのか,大きくてまるでシシケッド川に架かったような構図だった。それで「消えるなよ,消えるなよ」と願ったが、結局10分と持たなかったろうか。それはカメラの時刻が裏付けていた。22時10分頃から数分だったような気がする。

 上の写真はいわばシシケッド川右岸側のものだ。Bさんと筆者が寝起きするコテジの、その彼方に虹の端があった。また下の写真は左岸側のもので、森林豊かな対岸の山にかかっていた。

 これはモンゴルに来て2度目に見た虹だった。最初はウランバートルで夕立があり、その直後に出現した。しかし、その時は虹がだいぶ遠くで小さく、感激はあまり覚えなかった。しかし、今回は突然であり(まァ,予定していて出現する虹というのは聞かないが)近くで、筆者にすれば劇的だった。だから感激の度合いが強かったのかもしれない。

 まァ,虹の原因として思い当たるのは、夕方襲ってきたごく短時間のにわか雨くらいだったが。日々予想外、日々劇的。 (K.M)

(608) モンゴル日記(323)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて71 】

北モンゴル最奥部を訪ねて71

北モンゴル最奥部を訪ねて71

 この2枚の写真とも、あの断崖の手前にある高台から撮影したものだ。ここは眺望が良かった。上の写真はロシアとの国境に連なる奥山の”盟主”だ。こうして少し高い地点から眺めると、残雪は沢筋だけでなく稜線上にも認められた。また山容が大きく、どっしりとした姿を見ることもできた。

 さて下の写真。これは別に”芸術写真”ではない。たまたま画面が斜めだったのに気づかず写してしまっただけ。ただ筆者は気に入っている。もちろん実際の草原は平らである。やって来ていた4頭の馬と、その先にいた1頭の牛が草を食べているのんびりした風景だ。はじめはこの1頭も馬だと思っていたが,どうも体つきが違う。拡大して,前後の写真も調べたら、馬ではないと気づいた。

 放牧家畜のうち、馬や羊・山羊は群れを維持する性格が強いように思う。彼らにおいて、1頭だけ群れから大きく離れているといった場面は目にしたことがない。それに対して,牛などは群れからだいぶ離れている姿をたまに目撃することがあった。しかしそれとて,そのうち集団に合流する。

 だいたいモンゴルでは,放牧された同じ家畜どうしのケンカも、また違う種類がいがみ合う場面も一度も目撃したことがない。そうした様を「家畜の平和」と言うのかもしれないが・・・。

 変化に乏しくても穏やかな日々を送ることを良しとする価値観もある。日々平穏、日々平和。 (K.M)

(605) モンゴル日記(320)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて68 】

 北モンゴル最奥部を訪ねて68

 北モンゴル最奥部を訪ねて68

 写真はツーリストキャンプの夕暮れ時の風景だ。上の写真はシシケッド川、そして下はロシアとの国境がある北方の2,000m級の山々である。

 夕暮れとは言え、日本の感覚とはだいぶ異なる。だいいち,この時間帯を夕暮れと表現してよいものかどうか・・・。写真上は午後9時過ぎ、下は午後10時半過ぎなのだ。夕闇などとはまだ言えない。この国では一昨年から試行している夏時間制で、日本との時差はなくなっていたのだが。

 まず上の写真について。この日の気温は昼間,一時的に30℃を上回った。しかし湿度が低いので気にはならない。ただ晴れ間だと日差しが強くなる。で,帽子をかぶり,日かげに入る方が賢明。筆者は帽子だけはかぶっていたが、はじめのうちそんな事にはお構いなし。日の当たる所でも歩き回っていた。その結果、帰国したときには「真っ黒おじさん!」と驚かれた。

 また上の写真だが、午後8時,9時頃になってくると、シシケッド川の方から心地よい風が吹いてくる。それに誘われ、また万歩計の歩数を稼ぐためにも川岸を散歩した。左端に写ってしまったのは、しまい忘れた干しものだ。午前中に洗濯をして柵にかけておくと、夜にはもう乾く。

 下の写真で正面の奥の連山は、晴天でなくとも鮮やかな姿を拝める日があった。ただし,このくらいクッキリと望める日はそうなかったが。

 日々佳景、日々快適。 (K.M)

(599) モンゴル日記(314)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて62 】

北モンゴル最奥部を訪ねて62

北モンゴル最奥部を訪ねて62

 上の写真はテングス川をだいぶ下った地点から撮影した風景である。

 川と川原,木々の先端,山々の尾根や稜線,遠くの連山・・・これらによって横の線が構成され、そこに針葉樹林が縦の線をなしている。そして,空には雲が浮かぶ。景観に奥行きもある。見あきることのない風景だった。風流人なら絵筆を握るかもしれない。

 ところで下の写真はBa氏とT氏だった。しばらく彼らを見物していたが、釣れなかった。それで筆者は再び川原歩きに戻る。そして,石探しにも興じた。けっこう面白い小石が転がっているのだ。

 実は後日 帰国する際にそれらを持ち帰ろうした。が,空港であやうく没収されそうになった。搭乗手続きのとき、機内持ち込みのバッグに7,8個の小石をうっかり入れておいたのだ。それが透視カメラで写ったらしく、女性検査員に指摘された。はじめのうちは分からなかったが、どうやら彼女は”stones,stones”と言っているらしい。それで筆者は身振り手振りを交えながら、考えた挙句、”I collected them in a river”と訴えたところ、通った。

 なぜ小石でストップを掛けられたのか?後日 B氏に尋ねた。「シャチョー,モンゴルでは宝石が多く出ます、まァ原石ですけど。それを持ち出そうとするのではないか、と疑われたのだと思いますよ」。日々予想外、日々想定外。 (K.M)

(597) モンゴル日記(312)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて60 】

北モンゴル最奥部を訪ねて60

北モンゴル最奥部を訪ねて60

 上の写真で中央に見えるのは、ツーリストキャンプ東側にそびえる断崖である。博識のB氏の説くところでは、これはただの崖ではなく、かつての城砦だったという。

 彼の話によると、時代は17世紀のこと。モンゴルは欧州まで迫る大帝国を築いたチンギスハーンの時代,つまり13世紀の頃と事情が大きく違っていた。国が分裂時代に入っていたという。

 やがて当時の満州国の軍が北モンゴルに攻め入ってきた。それに対して、チュン・グンジャオという将軍がモンゴル軍を率いて勇猛に戦ったという。

 その激戦地のひとつがこの城砦だったという。 しかし,結果的に彼は敗軍の将となり、ロシアに逃げたらしい。その後も満州はたびたび攻め込み、とうとうモンゴルを支配下におさめた。それ以降,支配者は変われど、200年にわたりモンゴルは独立を失っていたという。

 ところで数日後,たまたまB氏に誘われ、この断崖の上まで登った。そして,そこで城砦説を納得するような情景を目にした。それについては後述する。

 さて下の写真では、ツーリストキャンプの一部とテングス川、その奥に残雪を所々に抱く山並みが覗く。これらはロシアとの国境沿いに連なる、標高2,000m~3,000mクラスの山々である。

 同じ写真で,左側の瀟洒な家屋はツーリストキャンプのコテジで、筆者たちはこれらに分散宿泊した。日々休憩、日々安息。 (K.M)