(599) モンゴル日記(314)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて62 】

北モンゴル最奥部を訪ねて62

北モンゴル最奥部を訪ねて62

 上の写真はテングス川をだいぶ下った地点から撮影した風景である。

 川と川原,木々の先端,山々の尾根や稜線,遠くの連山・・・これらによって横の線が構成され、そこに針葉樹林が縦の線をなしている。そして,空には雲が浮かぶ。景観に奥行きもある。見あきることのない風景だった。風流人なら絵筆を握るかもしれない。

 ところで下の写真はBa氏とT氏だった。しばらく彼らを見物していたが、釣れなかった。それで筆者は再び川原歩きに戻る。そして,石探しにも興じた。けっこう面白い小石が転がっているのだ。

 実は後日 帰国する際にそれらを持ち帰ろうした。が,空港であやうく没収されそうになった。搭乗手続きのとき、機内持ち込みのバッグに7,8個の小石をうっかり入れておいたのだ。それが透視カメラで写ったらしく、女性検査員に指摘された。はじめのうちは分からなかったが、どうやら彼女は”stones,stones”と言っているらしい。それで筆者は身振り手振りを交えながら、考えた挙句、”I collected them in a river”と訴えたところ、通った。

 なぜ小石でストップを掛けられたのか?後日 B氏に尋ねた。「シャチョー,モンゴルでは宝石が多く出ます、まァ原石ですけど。それを持ち出そうとするのではないか、と疑われたのだと思いますよ」。日々予想外、日々想定外。 (K.M)

(598) モンゴル日記(313)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて61 】

北モンゴル最奥部を訪ねて61

北モンゴル最奥部を訪ねて61

 上・下の写真はいずれもテングス川の川原に生えていた植物である。だいたい日差しが強く乾燥しがち,たまに増水ありの場所だ。が,健気にも花を咲かせていた。

 上はナデシコの仲間と思われる。至る所にあったわけではなく、ポツンポツンとあった。ただ,この辺りに咲いていた花で黄色は何種類かあったが、赤系はこれしかなかった。

 どうやら,ここでは群落を成す植物というのは見当たらなかった。ただ対岸にはツツジ類と思われる木本だけが、とぎれとぎれに列状に生えていたが。

 さて,下の写真はおそらくマンテマ類だろう。この連載でも以前書いたが、その時には草原で咲いていた。しかし,これは川原という過酷な場所で踏ん張っている。この植物の生育環境の幅は広いのかも知れない。

 ところでちょっと観察してみると、これらのナデシコもマンテマも、石と石の間の土壌が溜まった場所で生育していた。彼らはこうした場所を選んで根づいたのだろう。

 考えてみたら、ナデシコもマンテマも同じナデシコ科植物であった。筆者の判定が間違っていなければ、前者はナデシコ属,後者はマンテマ属となる。同じ科の植物を意図してここに載せたわけではない。偶然そうなっただけで、ちょっと不思議に感じた。

 川原で遊んでいると、せせらぎの音に混じってトビの鳴き声も聞こえてきた。あーぁ,日々のんびり、日々ゆったり。 (K.M)

(597) モンゴル日記(312)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて60 】

北モンゴル最奥部を訪ねて60

北モンゴル最奥部を訪ねて60

 上の写真で中央に見えるのは、ツーリストキャンプ東側にそびえる断崖である。博識のB氏の説くところでは、これはただの崖ではなく、かつての城砦だったという。

 彼の話によると、時代は17世紀のこと。モンゴルは欧州まで迫る大帝国を築いたチンギスハーンの時代,つまり13世紀の頃と事情が大きく違っていた。国が分裂時代に入っていたという。

 やがて当時の満州国の軍が北モンゴルに攻め入ってきた。それに対して、チュン・グンジャオという将軍がモンゴル軍を率いて勇猛に戦ったという。

 その激戦地のひとつがこの城砦だったという。 しかし,結果的に彼は敗軍の将となり、ロシアに逃げたらしい。その後も満州はたびたび攻め込み、とうとうモンゴルを支配下におさめた。それ以降,支配者は変われど、200年にわたりモンゴルは独立を失っていたという。

 ところで数日後,たまたまB氏に誘われ、この断崖の上まで登った。そして,そこで城砦説を納得するような情景を目にした。それについては後述する。

 さて下の写真では、ツーリストキャンプの一部とテングス川、その奥に残雪を所々に抱く山並みが覗く。これらはロシアとの国境沿いに連なる、標高2,000m~3,000mクラスの山々である。

 同じ写真で,左側の瀟洒な家屋はツーリストキャンプのコテジで、筆者たちはこれらに分散宿泊した。日々休憩、日々安息。 (K.M)

(596) モンゴル日記(311)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて59 】

北モンゴル最奥部を訪ねて59

北モンゴル最奥部を訪ねて59

 清らかな流れとドッシリとした山並み。この風景は日本でのことや時間の感覚を忘れさせてくれた。上の写真の清流はテングス川という。釣りをやる連中は、到着日の午後からさっそく釣り糸を垂らしていた。

 そしてこのテングス川と、もう1本すぐそばの南側を流れているシシケッド川が、この先で一緒になる。後日その合流点まで歩いて行ったが、印象的な風景を目にすることができた。モンゴルで川が合流する地点は、これまで1,2度行ったことがある。けれど,ここの合流点の景観は別格のように思えた。水量も豊富で大河の風格を漂わせていた。

 ところで,下の写真は遊牧民たちのゲルである。この辺りには5つのゲルが立てられていた。ということは,遊牧を営む5家族が生活しているのだろう。時々その生活の一端をかいま見る機会もあった。ある晴天の日,父親らしき人に見守られながら、川で子供が水浴びをする姿を目撃したこともある。

 参考までに、下の写真の中ほど,丸い穴の開いた小屋はトイレだろう。これは左右のゲルの家族たちが共用していると思われる。ということは,それぞれの家族が毎年この辺りまでやって来て、この草原で家畜の放牧を行なうのだろう。ひょっとしたら一族かも知れない。

 夏とはいえ寒暖の差があり、昼は30℃を超す時もあったが、朝はいつも10℃を割っていた。日々朝は肌寒く、日々昼は暖か。 (K.M)

(595) モンゴル日記(310)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて58 】

北モンゴル最奥部を訪ねて58

北モンゴル最奥部を訪ねて58

 たどり着いた所はこのように”いいとこ”だった。写真はいずれも,一眠りして起き出した昼頃の様子である。当初方針を大転換し、夜中の山道ものり越えて,やっとたどり着いたレンチンルフンブ村。そこのツーリストキャンプでの風景である。

 結局 夜中の1時半にこのキャンプに着いた。それですぐ部屋割り(コテジ割りふり)と荷下ろしにとりかかる。それを終えたあと、みながここのオーナー夫妻と簡単な食事をとりながら懇談の場を持った。

 その時に,ご主人から興味ある話を聞いた。あのシマノの会長さんがここにやって来たことがあるという。シマノの釣り具はモンゴルでも知られており、けっこう普及しているらしい。ただし,会長さんはヘリコプターでやって来たから、クルマでここまでやって来た日本人はあんたが最初だ、と言われた。そんなこともあって、ベッドで横になったのは結局明け方になった。

 ところで前号で述べた闇夜の山行は、文字どおり暗中模索となった。あの急坂の難所を手はじめに,その後も高低あり、岩場ありで息の抜けない走行となった。とくに最悪の岩場ではBa氏のクルマ以外は、みな立ち往生した。それで,男どもが押したりしながら、そこを何とか脱出。走りやすい平らな道になったのは、夜中の0時半頃からだった。

 前日の午前9時に出発し、16時間かかって到着!どっと疲れたが,どっと満足。(K.M)

(594) モンゴル日記(309)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて57 】

北モンゴル最奥部を訪ねて57

 真っ暗闇の中を進んだ。写真前方の赤い点はBa氏のランド・クルーザーの後部ライト。

 やがて湖の北端に注ぐ川に出る。そこには橋がかかっていて、鉄製のがっしりした造りだった。しかし何と,橋の向こう側にはゲートがあり、閉まっていた。その脇にはうす明かりのついた小屋があった。門番が詰めているのだ。

 「シャチョー,もし門番から何か聞かれても喋らないでください。」「?!」訳が分からない。何やらスパイ映画のようだったが、その通りにした。・・・ロシア国境が近いせいか?

 ゲートは開けてもらい、皆が無事 渡った。門番からは質問も受けなかった。そうして4台は湖 東岸の闇のなかを走り続けた。ところが・・・

 まもなく急な上り坂にぶち当たった!その勾配はかなりの角度だったが、それに加え,坂道が長く10m以上はあったろう。それでも隊長Ba氏の”ランクル”はたくましく上って行った。しかし,次に続くわがXトレイルは登坂を3,4回試みた。しまいに筆者も降りて、後ろを押したりした。「おっ!」上れないどころか滑ってきた。

 それでXトレイル以下3台はここの登坂を断念。迂回路を通って、”ランクル”が上りついた尾根の先で合流することになった。Ba氏はその迂回ルートも知っているらしく、Xトレイルに乗り込んだ。

 真夜中の山中行軍では気持ちに余裕なし,写真に余裕なし。で,この1枚だけ!(K.M)

 

(593) モンゴル日記(308)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて56 】

北モンゴル最奥部を訪ねて56

北モンゴル最奥部を訪ねて56

 サガンヌール村に浮かぶ月は半月だった。モンゴルで眺める月はいつもそうなのだが、この時もなかなか風情があった。ただこの時は,侘しさのような雰囲気も漂っていたが。

 ところで,この村が最後の集落,最後の給油地だったので、全車ガソリンを満タンにした。最初はもう一軒あった別のガソリンスタンドに寄ったのだが、古びた様子だったのか,そこでの給油はやめて下の写真の所で入れた。確かにこちらの方が大きく”近代的”だった。

 給油後 各車のドライバーが集まって、隊長格のBa氏を囲んで打ち合わせを始めた。これからの段取りについてだった。長い間話し合っていたが、時刻はもう夜の11時過ぎ。

 話し合いはまとまったようだった。結論はきっと,この近くでテントでも張るのだろうと予想していた。ところが,ところが,走り続けることに決めたという。まさか・・・この先,真夜中の山道を駆けて行くなどとは思ってもいなかった。後で振り返ってみると、上りの急坂あり,至る所に岩場あり,気の抜けない道路の連続だった。そんな「行軍」が結果的には2時間半ほど続いた。

 結局こういうことだったのだ。つまりサガンヌール湖の西岸を引きつづき北上。そして湖の北端にあってそこに注ぐ川を渡り、今度は東側の湖岸を南下したということだったのだ。最終目的地はその先の先だったが。

  日々予想外、日々何でもあり。 (K.M)

(592) モンゴル日記(307)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて55 】

20161217-09

 北モンゴル最奥部を訪ねて55

 「いやぁ,助かった!」・・・目に入った村の風景を見てホッとした(上の写真)。「ケガをしなくてよかったねェ!!」。「そうですねー」。実はこの少し前,危うく事故を起こしそうになった。

 それというのは,湖岸沿いの道路を走って来た筆者たちのXトレイルが、スピードを落とさずに道路の上り坂を駆け上がった。ところが,その先が急な下り坂になっていたのだ!!それで,一瞬 飛んだ!!

 その結果,勢いがよかったので、ドツーンという感じで落っこちた!!その衝撃はなかなかのものだった。B氏も筆者も数秒は何が起きたか分からなかった。・・・「危なかったですねー」。

 クルマをすぐ止めて、いま乗り越えてきた道路を振り返った。そこは坂なのだが、そのピークはまるでノコギリの刃の山のようだった!!それとは知らず、そこを勢いよく走って来たのだ。もちろん警告の道路標識などはどこにも無かった。・・・二人で思った・・・シートベルトのおかげでしょうかね,と。

 ところで,写真のサガンヌール湖に面している集落はサガンヌール村といった。かなり大きな集落らしく、戸数は数十ではきかないくらいに思えた。うす暗くなりかけていたが、村人に聞き聞きしてガソリンスタンドを探す。その途中,メンバーには若い連中も少なくなかったので、清涼飲料水も買い求め皆に配給した。

日々危うかった、日々助かった。 (K.M)

(591) モンゴル日記(306)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて54 】

北モンゴル最奥部を訪ねて54

北モンゴル最奥部を訪ねて54

 変化に富むサガンヌール湖の風景を楽しみながら、北上した。それは上の写真のとおりである。運転席のB氏が語りかけてくる、「きれいな湖でしょう、シャチョー。サガンヌールというのはモンゴル語で白い湖という意味です」。・・・そうですか・・・。筆者が今もっとも興味があることは、目的地まであともう何時間かかるのだろうか、ということだった。

 ところで,もしこの湖岸の道路が舗装され、周辺の宿泊施設などもある程度 整備されたならば、きっと国内外から観光客がやって来るだろう。草原,山岳,湖沼・・・これだけ風光明媚な地域なのだから。おそらく夏のシーズンならば、釣りマニアのみならず,アウトドア好きな人々も呼び込めると思う。

 とは言え,その大前提はここまでのアクセスロードである。舗装は無理かも知れないが、せめて道路にかかる橋や,横断する水場は最低限の整備をしてもらえたら、と思う。

 ただし道路舗装は無理にアスファルトにしない方がよいかも知れない。なぜなら,あまりにも大勢の観光客が一度にやって来ると、その影響で環境破壊や住民への悪影響が発生するかも知れないと考えるからだ。

 さて下の写真の中ほどには、どうも魚網のようなものが干されていた。だとしたら、モンゴルで初めて目にした魚網である。

 「モンゴル観光論」みたいになってしまったなァ。日々景勝地、日々絶景。 (K.M)

(590) モンゴル日記(305)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて53 】

北モンゴル最奥部を訪ねて53

北モンゴル最奥部を訪ねて53

 峠を越えたら湖が見えてきた。サガンヌール湖である。それは上の写真のように神秘的でさえあった。草原の悪路の果てに、こんなに美しい湖面が出現したのだ。それは感動的でさえあった!

 ところが,その湖岸に近づこうとしたら、下の写真のような「川」が現れた!そこでは上流のほう(右手)から勢いのある水が押し出してきていた。心配なのは深さがありそうなことだった!

 隊長Ba氏は手前でストップ。水面をじっくり眺めたあと,上流側に少し歩いて行き,戻って来た。次に足もとにあった小石を、流れの中ほどに投げ入れた。何のためだろう?

 その後 彼は自分に続くB氏に何か二言三言伝え、クルマに乗り込んだ。そして川に静かに進入していった。流れの中ほどまでは慎重に。とは言え,車体のほぼ半分は水没していた!!だが,そこを過ぎたら一気に向こう側に駆け上がった。さすが!しかし,クルマのタイヤからは水滴がしたたり落ちていた。

 次は筆者たちの番。「ええい,ままよ!! 」 筆者は助手席で両手両足を踏ん張った。いよいよ浸水だ。「ёИЗД  !!」 中ほどを過ぎたら、ドアのすき間から水が浸入して来るではないか!「おおっ!」  そこでB氏が叫ぶ、「ダイジョーブ!」、と渡りおえていた。

 下の写真は後走2台が川を渡るところだ。この後,もちろん彼らも無事こちら側に。ただ筆者たちのクルマの床には水が溜まっていた。 日々緊張、日々冷や汗。 (K.M)

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≪☆謹賀新年 今年もよろしく≫