(609) モンゴル日記(324)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて72 】

北モンゴル最奥部を訪ねて72

北モンゴル最奥部を訪ねて72

 上の写真で、この羊の群れを誘導していたのは子どもだった。右側にいる小さな子で、日本ならばきっと小学生だろう。この辺には遊牧の5家族が生活をしていると書いた。そのいずれかの子どもだろう。

 かつての日本の田舎でも、これに似た生活はあちこちにあった。子どもでも家の仕事を手伝うのが当たり前。筆者などもそうだった。5人きょうだいの末っ子として育ち、当時自宅で飼っていたニワトリや綿羊の世話をやらされた。この家畜の世話はズーッと兄二人がやっていたが、やがて筆者が引き継いだ。しかし,その綿羊とは相性が悪かったのか、世話は嫌だった。でも,やらないわけにはいかない。

 それに,その綿羊は人を区別していたようだった。というか兄たちに仕込まれていたのかも知れない。兄たちにはおとなしく従うのに、あるとき理由は何だったか,その綿羊を筆者が叩いたのだ。ところがそれ以来,事あるごとに頭を向けて筆者を突いてきた。これには参った。

 さて下の写真。羊の昼寝なのだ。モンゴルで初めて,羊たちの昼寝を見たとき、「あっ,大変だ。羊がいっぱい死んでる!」と、そばにいたB氏に叫んだ。すると,「何言ってんの。あれは昼寝,昼寝」。羊はコテッと横になり、まるで死んだような寝格好をするのが多いのだ。

 モンゴルの羊たちは怒って、”敵”に向かうことがあるのだろうか?日々発見、日々チョイ思索。 (K.M)

(608) モンゴル日記(323)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて71 】

北モンゴル最奥部を訪ねて71

北モンゴル最奥部を訪ねて71

 この2枚の写真とも、あの断崖の手前にある高台から撮影したものだ。ここは眺望が良かった。上の写真はロシアとの国境に連なる奥山の”盟主”だ。こうして少し高い地点から眺めると、残雪は沢筋だけでなく稜線上にも認められた。また山容が大きく、どっしりとした姿を見ることもできた。

 さて下の写真。これは別に”芸術写真”ではない。たまたま画面が斜めだったのに気づかず写してしまっただけ。ただ筆者は気に入っている。もちろん実際の草原は平らである。やって来ていた4頭の馬と、その先にいた1頭の牛が草を食べているのんびりした風景だ。はじめはこの1頭も馬だと思っていたが,どうも体つきが違う。拡大して,前後の写真も調べたら、馬ではないと気づいた。

 放牧家畜のうち、馬や羊・山羊は群れを維持する性格が強いように思う。彼らにおいて、1頭だけ群れから大きく離れているといった場面は目にしたことがない。それに対して,牛などは群れからだいぶ離れている姿をたまに目撃することがあった。しかしそれとて,そのうち集団に合流する。

 だいたいモンゴルでは,放牧された同じ家畜どうしのケンカも、また違う種類がいがみ合う場面も一度も目撃したことがない。そうした様を「家畜の平和」と言うのかもしれないが・・・。

 変化に乏しくても穏やかな日々を送ることを良しとする価値観もある。日々平穏、日々平和。 (K.M)

(607) モンゴル日記(322)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて70 】

北モンゴル最奥部を訪ねて70

北モンゴル最奥部を訪ねて70

 こんどは牛の来訪だ。彼らは度々やって来た。上・下の写真では群れが異なるし、日時も違う。写真上は移動日の翌日 午前11時ころだ。このグループは子牛を連れて来た。後から気づいたが、この写真を見ると,柵のゲートなどは開けっ放しなのだ!

 下はキャンプの移動日その日 午後8時半過ぎ。外がまだこんなに明るいので、連中は遅くまでいた。手前のこの若牛は、うちのコテジまで来て尻を向けていた。

 こうなるともう,キャンプに家畜が来ても気にならなくなった。彼らはこちらに危険を感じさせることなど全くなかった。ただ黙々と草を食べ続け,いつの間にか姿を消していた。

 ところで一度だけ目撃したが,やって来た牛1頭が前夜の焚き火のあとの灰を熱心に舐めていた。整腸剤がわりだろうか?

 さて「ツーリストキャンプ」について説明をしておこう。モンゴルでこれまで2度ツアーに連れて行ってもらった。いずれもキャンプ道具を持参し、テントで寝泊まりするという生活だった。

 けれど今回はツーリストキャンプである。簡単にいうと、それはコテジ村だった。日本でいうバンガローとコテージの中間のような小屋の集合だ。それゆえ”コテジ”と呼ばせてもらっている。各棟には暖炉はあるし、ベッドも備え付けだった。

 トイレやシャワーは共用だったが、さほど不便は感じなかった。日々チョイ気づかい、日々まァ快適。 (K.M)

(606) モンゴル日記(321)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて69 】

北モンゴル最奥部を訪ねて69

北モンゴル最奥部を訪ねて69

 ご覧のように、馬がキャンプの敷地内で堂々と草を食んでいる。以前述べたが、彼らは柵の外にいるのではない。間違いなく柵の内側なのだ。

 馬が柵内に”侵入”して来た最初のとき、そばにいたBさんに叫んだ。「たいへん!馬が入って来ちゃったよ」。ところが彼は、「ああ,そう。彼らも草を食べたいのでしょう」?! 他の人たちに訴えても相手にしてくれなかった。ただ一人,T氏のお嬢さんがこう言ってくれた、”Never mind,never mind”。

 要するに,モンゴルの人たちは柵の中に入ってくる牛馬など、全く気にしない。騒ぐ日本人がどうかしている、と考えているのだろう。これ以降,牛なども度々やって来た。中には草も食べずにコテジの日陰で休む牛もいたほど。ただ羊とヤギは一度も来なかった。牛馬に比べると臆病なのかもしれない。

 さて家畜のうち,草を食べる姿は馬がいちばん興味深い。馬たちが逃げ出さない程度に彼らに近寄る。そして,そのそばで耳も彼らに集中させる。と,”ムシッ,ムシッ”というような音が聞こえてくる。丈のごく短い草を、口先で巧みにむしりとっている音なのだ。この辺の草地で10㎝も草丈の伸びている場所などなかった。まァせいぜい2,3㎝だろう。それを食べ尽くしていくのだ。

 彼らは「美味かった」とも言わず,食事が済んだら立ち去った。日々交流、日々交感。 (K.M)

 

(605) モンゴル日記(320)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて68 】

 北モンゴル最奥部を訪ねて68

 北モンゴル最奥部を訪ねて68

 写真はツーリストキャンプの夕暮れ時の風景だ。上の写真はシシケッド川、そして下はロシアとの国境がある北方の2,000m級の山々である。

 夕暮れとは言え、日本の感覚とはだいぶ異なる。だいいち,この時間帯を夕暮れと表現してよいものかどうか・・・。写真上は午後9時過ぎ、下は午後10時半過ぎなのだ。夕闇などとはまだ言えない。この国では一昨年から試行している夏時間制で、日本との時差はなくなっていたのだが。

 まず上の写真について。この日の気温は昼間,一時的に30℃を上回った。しかし湿度が低いので気にはならない。ただ晴れ間だと日差しが強くなる。で,帽子をかぶり,日かげに入る方が賢明。筆者は帽子だけはかぶっていたが、はじめのうちそんな事にはお構いなし。日の当たる所でも歩き回っていた。その結果、帰国したときには「真っ黒おじさん!」と驚かれた。

 また上の写真だが、午後8時,9時頃になってくると、シシケッド川の方から心地よい風が吹いてくる。それに誘われ、また万歩計の歩数を稼ぐためにも川岸を散歩した。左端に写ってしまったのは、しまい忘れた干しものだ。午前中に洗濯をして柵にかけておくと、夜にはもう乾く。

 下の写真で正面の奥の連山は、晴天でなくとも鮮やかな姿を拝める日があった。ただし,このくらいクッキリと望める日はそうなかったが。

 日々佳景、日々快適。 (K.M)

(604) モンゴル日記(319)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて67 】

北モンゴル最奥部を訪ねて67

北モンゴル最奥部を訪ねて67

 上・下とも野鳥の写真だ。別に酉年だからと,気を利かしたわけではない。前号でも紹介したアカツクシガモを筆頭に、この辺りでは色々な野鳥を見かけたからだ。

 まず上はシシケッド川を下るトビ。鳥博士K氏によれば、目のまわりの感じが日本種と少し違うらしいが、トビに間違いはないだろうという。日本でも,モンゴルでも大空を旋回する姿はときどき見かける。いや,それが普通だと思う。このトビという鳥、孤高で群れず,寡黙でカッコいいと長年 思ってきた。けれど中学生の頃、この鳥が3羽のカラスに撃退される光景を目撃して以来,興ざめした。でもその姿を見かけると,やはり今でも注目してしまう。

 ところで,このように水面近くを飛ぶトビというのは珍しいのかもしれない。旋回などはせず、そのまま下流にスーッと行った。川面近くを飛んでいると、獲物が得やすいことを学習したのだろうか。ちょっと感激。

 さて,下の2羽である。同じくK氏によれば、コクマルカラスだろう,とのこと。彼らはユーラシア大陸に広く住んでいるという。右の鳥なぞは嘴に虫らしき獲物をくわえていた。はじめのうち,筆者は視力の悪いことや野鳥の知識が乏しいこともあり、てっきりカササギか,その仲間かな、と思っていた。K氏から的確な判定を頂いた。

 まァ当たらずとも遠からず、カササギもカラス科だった。日々牛馬、日々鳥々。 (K.M)

(603) モンゴル日記(318)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて66 】

北モンゴル最奥部を訪ねて66

北モンゴル最奥部を訪ねて66

 上の写真はアカツクシガモの一家である。彼らについて以前 紹介したが、羽がうすい茶色で美しく,愛らしい。このシシケッド川を生活の場にしていたようだ。子供が9羽,親が2羽で計11羽なのだ。

 このカモの親子はいろんな姿を披露してくれた。こうした遊泳の場面はほほえましいが、時には不安にさせる場面も目撃した。毎日,気にかけていると、しだいに彼らに対して情が湧いてきた。

 たとえば対岸の水生植物帯(ガマに近い種だろうか)に逃げ込み、姿を隠している様子。あるいはこちら側の数十メートル上流で、親鳥が子供たちにまるで水泳を教えているかのような場面・・・。だから,このカモたちが姿を見せなくなったり、その数が欠けていると、筆者は少し心配になった。

 ところで,下の写真である。この二番目のツーリストキャンプから、東北方面を望んだ景観だ。右手には(597)号で紹介した断崖(城砦?)も見える。こちらから眺めた岩の面は直立しているのがはっきりと分かる。

 また手前に見えるこの木の柵は、てっきり家畜たちの進入を防ぐためと思っていた。しかしそうではなかった。放牧された馬でも牛でも、この柵など全然気にしない。彼らはコテジの窓の下までやって来た。だから実際は、まぁオブジェみたいなものだった。

 ここで植物にだけ関心を向けているなんて出来なかった。日々鳥類、日々家畜。 (K.M)

(602) モンゴル日記(317)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて65 】

北モンゴル最奥部を訪ねて65

北モンゴル最奥部を訪ねて65

 どういう理由か知らないが,ツーリストキャンプを次の日にはもう変えてしまった。宿泊の関係はB氏の担当だったが、その辺の事情はまったく不明。それに筆者も彼に聞こうとはしなかった。それなりの事情があったのだろうから。

 それで2日目の午後に,はじめのツーリストキャンプを去り、次のキャンプに移った。そして,帰るまでの4日間をそこで過ごす。ただ2つのキャンプは互いに近い位置にあった。だから移動の時間はクルマでわずか1,2分。

 そして2つ目のキャンプも川辺にあった。はじめのツーリストキャンプはテングス川のすぐそば、後のキャンプはシシケッド川の河畔にあった。

 上の写真はその後半のツーリストキャンプである。手前左手2つの小屋はトイレ。その奥の窓がいくつもある大きい2棟がコテジで、そこに3グループが,また筆者とB氏は右の建物の陰になっている小コテジで寝泊まりした。奥の左手の棟はシャワー室と洗面所,洗濯室の入った共用施設である。ここに4グループが分散し、4日間を過ごした。

 さて下の写真はシシケッド川である。テングス川に比べて、水量が多く水深もあった。だから流速は遅い。また,川底は泥土のようだった。このシシケッド川は釣り人こそ近づかなかったものの、さまざまな表情を見せてくれた。

 ここでの4日間は時間を持て余すことがなかった。日々新鮮、日々チョイ感動。 (K.M)

(601) モンゴル日記(316)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて64 】

北モンゴル最奥部を訪ねて64

北モンゴル最奥部を訪ねて64

 写真を見て、何がテーマか分かる人もいよう。羊の屠殺である。そのプロセスも数枚は撮影したが、ここには載せない。

 モンゴルでは肉料理というと、ふつう羊肉が出される。そんな食習慣を背景に、生きた羊が羊肉に変わるまでの過程をここで目にした。写真でいえば、上の場面から下の場面に変わるまでのほぼ一部始終をである。

 1日目の昼頃,親友B氏が囁いた。「シャチョー,私たちが食べるのに羊を肉にします。その現場を一度は見ておいたらどうですか?」。好奇心がざわついた。けれど迷った。が、目撃することにした。

 結論から言うと、1時間ちょっとのそのドラマを目にしたショックは小さくはなかった。しばらく肉は食べたくない・・・。そして、名著『アーロン収容所』を思い出し、帰国後に久しぶりに読み返した。

 「・・・日本人は一般に家畜の屠殺ということに無経験な珍しい民族なのである。同じアジア人でも、中国人やビルマ人は屠殺に馴れている。それ以上にヨーロッパ人は馴れている。・・・(日本人は)牛肉は大好きなくせに、殺すことと殺す人を嫌悪する風習がある。ヨーロッパでは、毛皮業者や食肉業者の社会的地位が昔から高かったのである。」と,著者の故会田雄次氏は述べる。

 目に焼き付いたのは羊の表情だった。それは間もなく命を失うことを悟っていた目だった。(上の写真)。日々異体験、日々異文化。 (K.M)

(600) モンゴル日記(315)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて63 】

北モンゴル最奥部を訪ねて63

北モンゴル最奥部を訪ねて63

 「北モンゴル最奥部を訪ねて」というタイトルで、これまで連載してきた。では,その北モンゴル最奥部とはいったい,どのあたりなのか?ということについて述べる。

 上の写真はモンゴル全図で、ある旅行ガイドに付いていた地図の拡大だ。モンゴルの国土は形でいうと、コウモリが羽を広げて飛んでいる姿に似ている、と筆者はとらえている。カッコウの悪い姿だが、それに則って説明すると,左の翼が西部、右の翼が東部。そしていわば頭部にあたるのが北モンゴルである。

 参考までに説明すると、この地図で上部(北部)がロシア。右側(東側)から下部(南側)にかけてが中国。その大半が内蒙古自治区になっている。とは言え、そこだけで日本の3倍ほどの面積を持つ。またそうした名称にもかかわらず、同自治区の現在の人口比率は民族的には漢民族が圧倒的であり、モンゴル民族はもう20%を切っているらしい。

 ところで上の地図で矢印の先が、滞在したツーリストキャンプのだいたいの位置。また,それをもっと詳細に示したのが、下の写真の地図である。こちらの矢印はよりいっそう正確な位置を示したものだ。お分かりの通り、やはり最果ての地なのだ。

 ウランバートルに戻ってきたら、「モンゴル人でもあまり行かない所に、カタオカさんよく行ってきましたね」、とビジネスパートナーはからかった?! 日々ビックリ、日々驚き。 (K.M)