(613) モンゴル日記(328)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて76 】

北モンゴル最奥部を訪ねて76

北モンゴル最奥部を訪ねて76

 上・下とも例のアカツクシガモ一家の写真である。はじめは上の写真のように、子ガモたちだけが泳いでいた。下流から上流に向かって、9羽ぜんぶがいたようだ・・・。最初のうち,その姿だけしか目に入らなかったから、「子どもたちだけでは危険じゃないか!親はどこへ行ったんだ?」。早とちりをしてしまった。

 と,まもなく気づいた。子ガモたちが向かう先の上流の岸辺に、親鳥はちゃんといた。下の写真だ。まるで彼らを見守っているかのような様子。「ははァ,こりゃ泳ぎを教えているのか。なるほど,なるほど」。感心をした。

 鳥類は飛ぶ能力は当たり前、そのうえ彼らは水鳥だから泳ぐ能力も備わっているわけだ。ただし,こうした能力も経験の積み重ねがないと,うまく発揮できないだろう。だから親がこの大事な能力を鍛えるべく、天敵監視なども兼ねて,こうしていると考えられる。動物行動学などまるで知らない筆者ではあるが。

 だいたい動物の姿を見ているのは楽しい。小さい頃はそうではなかった。しかしいつの頃からか、霊長類に興味を抱くようになった。そして能力とご縁があれば、某大学の霊長類研究所に行く夢もあった。しかし,やはりそれは夢に終わった。ただ,所在地だけは同じ京都のある私大に進んだ。

 振り返ると,京都での学生生活はユーフクではなかったが、楽しかった。・・・日々カネなし、日々心配なし。 (K.M)

(611) モンゴル日記(326)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて74 】

北モンゴル最奥部を訪ねて74

北モンゴル最奥部を訪ねて74

 牛たちはキャンプに度々やって来た。そのことは前に述べた。しかし今回は上の写真のように、草を食べるのはそっちのけにして、日かげに入ってドデンと休む猛者が現れた。「おおっ!」、思わず驚いた。「しかし・・・どこか具合でも悪いのだろうか?」この牛は大きな体で、きっと体重は何百キロもあっただろう。

 彼(彼女?)は夕方,10頭前後の仲間といっしょにキャンプに入って来た。まァ,体はいちばん大きいようだった。そして態度もデカかった?! コテジに体を寄せて、こんな風に日差しを避けていたのはこの1頭だけだった。おそらくグループの中ではボス格と思われる。そして,ひょっとして腹は空いていなかったのかも知れない。

 北モンゴルと言えど、たしかにこの日は暑かった。晴天だったこともあり、昼間はいっとき32,33℃に達したようだ。それで筆者たちも日かげに入ったり、コテジに逃げ込んだり。

 ところで,下の写真である。これが前にも言及したことがあるが、ツーリストキャンプを囲っている柵の出入り口なのだ。滞在中ずーっとこのままの状態だった。機能など果たしていない。ほんと、オブジェなのだ。しかし,こちらもそれが全く気にならなくなった。結局,この牛たちは20時過ぎまでいた。

 大らかな景色と大らかな人々のなかにいると、こちらも大らかになる?! 日々ゆったり、日々大ざっぱ。 (K.M)

(610) モンゴル日記(325)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて73 】

北モンゴル最奥部を訪ねて73

北モンゴル最奥部を訪ねて73

 上の写真は今回のツアーで最も気に入った一枚である。シシケッド川の岸辺で、たまたま放牧の牛と川面を泳ぐ水鳥がタイミングよく共存する場面をとらえた。幸運にも,彼らの生き生きしたようすをひとつのフレームで撮影できた。

 はじめのうちは川を下流へと泳ぐ,例のアカツクシガモ一家を追っかけていた(写真下)。カモたちにとって、自分たちに興味を抱く日本人の旅行者のことなぞ知ったことではない。だから,水面で止まってポーズを作るなんていう芸当はしてくれない。そのまま下流に泳いでいった。

 一方,7頭の牛たちはみな若い牛で、あたり前だがカモのことなど全く眼中にないようす。仲良く川辺の短い草をのんびりと食べ続けていた。

 と,しだいにカモたちが岸辺にいた牛たちに近づくような構図になった。「おおっ,おもしろい情景になるぞ。こりゃあチャンスだ!」、とばかりにシャッターを押す。そして,上の写真とあいなった。カモたちが泳いで水面に描いた、飛行機雲のような波紋の線も鮮やかに写っていた。

 実はこの”名場面”は撮影したあと、すっかり忘れていた。けれど帰国してから、何百枚という写真を順繰りにチェックしていたら発見した。そこで,「これは絶対ブログに載せよう」と、その時から決めていた。

 写真家というのは、風景のなかに詩を見いだす達人かもしれない。日々情感、日々詩心。 (K.M)

(609) モンゴル日記(324)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて72 】

北モンゴル最奥部を訪ねて72

北モンゴル最奥部を訪ねて72

 上の写真で、この羊の群れを誘導していたのは子どもだった。右側にいる小さな子で、日本ならばきっと小学生だろう。この辺には遊牧の5家族が生活をしていると書いた。そのいずれかの子どもだろう。

 かつての日本の田舎でも、これに似た生活はあちこちにあった。子どもでも家の仕事を手伝うのが当たり前。筆者などもそうだった。5人きょうだいの末っ子として育ち、当時自宅で飼っていたニワトリや綿羊の世話をやらされた。この家畜の世話はズーッと兄二人がやっていたが、やがて筆者が引き継いだ。しかし,その綿羊とは相性が悪かったのか、世話は嫌だった。でも,やらないわけにはいかない。

 それに,その綿羊は人を区別していたようだった。というか兄たちに仕込まれていたのかも知れない。兄たちにはおとなしく従うのに、あるとき理由は何だったか,その綿羊を筆者が叩いたのだ。ところがそれ以来,事あるごとに頭を向けて筆者を突いてきた。これには参った。

 さて下の写真。羊の昼寝なのだ。モンゴルで初めて,羊たちの昼寝を見たとき、「あっ,大変だ。羊がいっぱい死んでる!」と、そばにいたB氏に叫んだ。すると,「何言ってんの。あれは昼寝,昼寝」。羊はコテッと横になり、まるで死んだような寝格好をするのが多いのだ。

 モンゴルの羊たちは怒って、”敵”に向かうことがあるのだろうか?日々発見、日々チョイ思索。 (K.M)

(607) モンゴル日記(322)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて70 】

北モンゴル最奥部を訪ねて70

北モンゴル最奥部を訪ねて70

 こんどは牛の来訪だ。彼らは度々やって来た。上・下の写真では群れが異なるし、日時も違う。写真上は移動日の翌日 午前11時ころだ。このグループは子牛を連れて来た。後から気づいたが、この写真を見ると,柵のゲートなどは開けっ放しなのだ!

 下はキャンプの移動日その日 午後8時半過ぎ。外がまだこんなに明るいので、連中は遅くまでいた。手前のこの若牛は、うちのコテジまで来て尻を向けていた。

 こうなるともう,キャンプに家畜が来ても気にならなくなった。彼らはこちらに危険を感じさせることなど全くなかった。ただ黙々と草を食べ続け,いつの間にか姿を消していた。

 ところで一度だけ目撃したが,やって来た牛1頭が前夜の焚き火のあとの灰を熱心に舐めていた。整腸剤がわりだろうか?

 さて「ツーリストキャンプ」について説明をしておこう。モンゴルでこれまで2度ツアーに連れて行ってもらった。いずれもキャンプ道具を持参し、テントで寝泊まりするという生活だった。

 けれど今回はツーリストキャンプである。簡単にいうと、それはコテジ村だった。日本でいうバンガローとコテージの中間のような小屋の集合だ。それゆえ”コテジ”と呼ばせてもらっている。各棟には暖炉はあるし、ベッドも備え付けだった。

 トイレやシャワーは共用だったが、さほど不便は感じなかった。日々チョイ気づかい、日々まァ快適。 (K.M)

(606) モンゴル日記(321)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて69 】

北モンゴル最奥部を訪ねて69

北モンゴル最奥部を訪ねて69

 ご覧のように、馬がキャンプの敷地内で堂々と草を食んでいる。以前述べたが、彼らは柵の外にいるのではない。間違いなく柵の内側なのだ。

 馬が柵内に”侵入”して来た最初のとき、そばにいたBさんに叫んだ。「たいへん!馬が入って来ちゃったよ」。ところが彼は、「ああ,そう。彼らも草を食べたいのでしょう」?! 他の人たちに訴えても相手にしてくれなかった。ただ一人,T氏のお嬢さんがこう言ってくれた、”Never mind,never mind”。

 要するに,モンゴルの人たちは柵の中に入ってくる牛馬など、全く気にしない。騒ぐ日本人がどうかしている、と考えているのだろう。これ以降,牛なども度々やって来た。中には草も食べずにコテジの日陰で休む牛もいたほど。ただ羊とヤギは一度も来なかった。牛馬に比べると臆病なのかもしれない。

 さて家畜のうち,草を食べる姿は馬がいちばん興味深い。馬たちが逃げ出さない程度に彼らに近寄る。そして,そのそばで耳も彼らに集中させる。と,”ムシッ,ムシッ”というような音が聞こえてくる。丈のごく短い草を、口先で巧みにむしりとっている音なのだ。この辺の草地で10㎝も草丈の伸びている場所などなかった。まァせいぜい2,3㎝だろう。それを食べ尽くしていくのだ。

 彼らは「美味かった」とも言わず,食事が済んだら立ち去った。日々交流、日々交感。 (K.M)

 

(604) モンゴル日記(319)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて67 】

北モンゴル最奥部を訪ねて67

北モンゴル最奥部を訪ねて67

 上・下とも野鳥の写真だ。別に酉年だからと,気を利かしたわけではない。前号でも紹介したアカツクシガモを筆頭に、この辺りでは色々な野鳥を見かけたからだ。

 まず上はシシケッド川を下るトビ。鳥博士K氏によれば、目のまわりの感じが日本種と少し違うらしいが、トビに間違いはないだろうという。日本でも,モンゴルでも大空を旋回する姿はときどき見かける。いや,それが普通だと思う。このトビという鳥、孤高で群れず,寡黙でカッコいいと長年 思ってきた。けれど中学生の頃、この鳥が3羽のカラスに撃退される光景を目撃して以来,興ざめした。でもその姿を見かけると,やはり今でも注目してしまう。

 ところで,このように水面近くを飛ぶトビというのは珍しいのかもしれない。旋回などはせず、そのまま下流にスーッと行った。川面近くを飛んでいると、獲物が得やすいことを学習したのだろうか。ちょっと感激。

 さて,下の2羽である。同じくK氏によれば、コクマルカラスだろう,とのこと。彼らはユーラシア大陸に広く住んでいるという。右の鳥なぞは嘴に虫らしき獲物をくわえていた。はじめのうち,筆者は視力の悪いことや野鳥の知識が乏しいこともあり、てっきりカササギか,その仲間かな、と思っていた。K氏から的確な判定を頂いた。

 まァ当たらずとも遠からず、カササギもカラス科だった。日々牛馬、日々鳥々。 (K.M)

(603) モンゴル日記(318)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて66 】

北モンゴル最奥部を訪ねて66

北モンゴル最奥部を訪ねて66

 上の写真はアカツクシガモの一家である。彼らについて以前 紹介したが、羽がうすい茶色で美しく,愛らしい。このシシケッド川を生活の場にしていたようだ。子供が9羽,親が2羽で計11羽なのだ。

 このカモの親子はいろんな姿を披露してくれた。こうした遊泳の場面はほほえましいが、時には不安にさせる場面も目撃した。毎日,気にかけていると、しだいに彼らに対して情が湧いてきた。

 たとえば対岸の水生植物帯(ガマに近い種だろうか)に逃げ込み、姿を隠している様子。あるいはこちら側の数十メートル上流で、親鳥が子供たちにまるで水泳を教えているかのような場面・・・。だから,このカモたちが姿を見せなくなったり、その数が欠けていると、筆者は少し心配になった。

 ところで,下の写真である。この二番目のツーリストキャンプから、東北方面を望んだ景観だ。右手には(597)号で紹介した断崖(城砦?)も見える。こちらから眺めた岩の面は直立しているのがはっきりと分かる。

 また手前に見えるこの木の柵は、てっきり家畜たちの進入を防ぐためと思っていた。しかしそうではなかった。放牧された馬でも牛でも、この柵など全然気にしない。彼らはコテジの窓の下までやって来た。だから実際は、まぁオブジェみたいなものだった。

 ここで植物にだけ関心を向けているなんて出来なかった。日々鳥類、日々家畜。 (K.M)

(601) モンゴル日記(316)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて64 】

北モンゴル最奥部を訪ねて64

北モンゴル最奥部を訪ねて64

 写真を見て、何がテーマか分かる人もいよう。羊の屠殺である。そのプロセスも数枚は撮影したが、ここには載せない。

 モンゴルでは肉料理というと、ふつう羊肉が出される。そんな食習慣を背景に、生きた羊が羊肉に変わるまでの過程をここで目にした。写真でいえば、上の場面から下の場面に変わるまでのほぼ一部始終をである。

 1日目の昼頃,親友B氏が囁いた。「シャチョー,私たちが食べるのに羊を肉にします。その現場を一度は見ておいたらどうですか?」。好奇心がざわついた。けれど迷った。が、目撃することにした。

 結論から言うと、1時間ちょっとのそのドラマを目にしたショックは小さくはなかった。しばらく肉は食べたくない・・・。そして、名著『アーロン収容所』を思い出し、帰国後に久しぶりに読み返した。

 「・・・日本人は一般に家畜の屠殺ということに無経験な珍しい民族なのである。同じアジア人でも、中国人やビルマ人は屠殺に馴れている。それ以上にヨーロッパ人は馴れている。・・・(日本人は)牛肉は大好きなくせに、殺すことと殺す人を嫌悪する風習がある。ヨーロッパでは、毛皮業者や食肉業者の社会的地位が昔から高かったのである。」と,著者の故会田雄次氏は述べる。

 目に焼き付いたのは羊の表情だった。それは間もなく命を失うことを悟っていた目だった。(上の写真)。日々異体験、日々異文化。 (K.M)

(560) モンゴル日記(275)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて23 】

北モンゴル最奥部を訪ねて23

北モンゴル最奥部を訪ねて23

 上の写真は休憩のとき、草むらにいたバッタである。この他にも数種類のバッタがいた。中には五角形のような背中をして、その色が地面と似ていて,なかなか見分けがつかないヤツもいた。けれど,この連中は特徴が際立っていた。

 彼らはシャキシャキッというような音を出しながら、飛ぶのである。跳ぶのではない、飛翔するのだ。その飛行距離は長いと、数十メートルに及ぶ。また,その高さも5,6メートル以上に達する時もあった。とくに風に乗った場合など、百メートル以上の”最長不倒距離”を記録する猛者もいた。

 体長は3,4センチ、体の色彩・模様はさまざまだった。背中の色が薄茶色もいれば、薄緑も灰色もいた。また模様は縦じまが多かったが、中には点々や模様がないモノもいた。実に多様なのだ。ただ厳密に言って,彼らが同一種かどうかは分からない。

 この飛行バッタ、目的地のキャンプの周囲にもたくさん生息していた。そこで、彼らの飛ぶ姿を撮影しようと何度か試みたが、果たせなかった。

 下の写真はその休憩後、再び走り出したら見えてきた風景だ。どうやら,この辺りから山の様子が変わってきた。草すら生えないような山肌で、すべすべした岩が露出しているように見える。しばらく忘れていた筆者の頭部のことを、つい思い出してしまった。

楽しいけれど、目的地にはいつ着くのだろう。時々気がかり、時々忘却。 (K.M)