(619) モンゴル日記(334)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて82 】

北モンゴル最奥部を訪ねて82

北モンゴル最奥部を訪ねて82

 今回はモンゴルの屋外トイレのことを述べる。上の写真は筆者たちが寝泊まりしていたツーリストキャンプの全景だ。手前左側の2つの小屋がトイレである。モンゴルの田舎のトイレについては、日本のヤワな女性たちにとっては難物かもしれない。たしか以前にも記したことがある。

 そのうち下の写真が左側のもので、まァ見た目はそれほど悪くはない。しかし、筆者は結局こちらのトイレは試しに1回しか利用しなかった。なぜなら,この便座に腰を下ろしても、つま先が床に着かないのだ。だから,どうも落ち着かない。これが最大の理由。それに筆者は何も敷かずに便座にベタッと座るのは好きではない。

 もちろん水洗などではない。単純落下式で下には深く巨大な箱が掘られている。その巨大な箱を筆者は”闇地獄”と呼んでいるが。かといっても,蠅などは飛びまわらない。また臭いもほとんどしない。ただ下を覗くと、闇地獄のようすが目に入ってくる。だから慣れない人は、下方に目をやらないこと。しかし、その闇地獄に落ちることだけは絶対避けなければならない。ではこのトイレを使わないで、どうやって用を足していたのか?隣のもう一つの開放的な和式トイレを利用していたのだ。

 ところで,これら2つのトイレの右側に地面を矩形に掘ったような跡が見えると思う。これが実は以前のトイレだった場所だ。日々トイレ、日々快便。 (K.M)

(618) モンゴル日記(333)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて81 】

北モンゴル最奥部を訪ねて81

北モンゴル最奥部を訪ねて81

 ここで拝む朝日は格別だった。深い霧が消え去って、しだいに東の空が明るくなってくる。そして,たちまち日が上る。その間、数十分のドラマだった。だいたい新潟では,こうした日の出はなかなか見ることができない。

 目にする景観のなかで、自然物と人工物との割り合いで言えば、新潟市あたりでもやはり人工物が多めになってくる。人工物を極力避けたいのであれば、やはり山奥などに行くしかないだろう。しかし,北モンゴルのレンチンルフンブ村のこの辺では5組の遊牧民家族のゲルと、筆者たちが寝泊まりするツーリストキャンプ以外はほとんど人工物は見られない。

 モンゴルを訪れたことのある日本人の間では、その星空のすばらしさは比較的知られている。しかし自然景観といえば、それに劣らず月の風景もなかなか情緒に満ちたものだ。それに,この日の出の美しさがある。

 日の出前後の,数分の劇的なドラマもなかなか感動的なのだ。暗い世界から輝く世界へ、あっという間の場面転換なのだ。これもモンゴルの田舎の風景の魅力だ。そもそもこちらでは晴天日が多い。だから,日の出のドラマを見ようと思えば容易にできる。ウランバートルで毎朝日の出を拝むことも兼ね、自宅からザイサンの丘までウオーキングをする友人がいるくらいだもの。

 異郷の風景は目と心の疲れを取り去ってくれる。日々 ストレスゼロ、日々気分転換。 (K.M)

(617) モンゴル日記(332)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて80 】

北モンゴル最奥部を訪ねて80

北モンゴル最奥部を訪ねて80

 薄くなってはきたが、まだ霧が立ち込めるシシケッド川。上の写真は朝の5時54分、下の写真はその15分後だ。上の写真で分かるように、川面からはいぜん霧が立ちのぼっていた。実に幻想的な風景で、こんな時,絵心でもあればなァ・・・。

 そしてこの霧のなか,久しぶりにテツガク的心境になった・・・「おれはどうしてここにいるんだろう」。この国に来て,時たま襲われる意識である。日本にいては,ほとんど経験しない心的状態だ。

 そうした意識が導いたのか、このあと今は亡き親友を思い浮かべた。これは日本では時々あることだった。しかし,モンゴルで思い浮かべることはこれまであまり無かった。彼とは京都時代からの付き合いで、大学卒業後も親しく行ったり来たりしていた。彼はK君といい、たまたま筆者と同じ新潟出身で高校も同じだった。ただ1年後輩だった。けれど大学卒業時には彼の方が先輩となった。が、いつもセンパイと呼んでくれていた。

 筆者が出張などで上京した折には、よく一緒に居酒屋へ行った。そんなとき彼は、「センパイ、モンゴルのビジネスはどうですか?」。いつも気にしてくれていた。彼はいろんな出来事に遭遇しながらも、出世街道に乗る。そして取締役まで手が届きそうになったときに急逝!それは平成20年6月のこと、まだ55歳だった。

 感傷的になった霧の朝。たまにふり返り、たまに追憶。 (K.M)

(616) モンゴル日記(331)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて79 】

北モンゴル最奥部を訪ねて79

北モンゴル最奥部を訪ねて79

 時刻は早朝5時50分過ぎ。たちまち霧がうすくなってきた。そして視界が広がってくる。上の写真のように、もう数十mくらい先が見えるようになってきている。写っている柵はキャンプの北側の部分だ。

 下の写真はキャンプ全体のようすである。撮影記録を見ると、上の写真の1分後なのである。それだけ急速に霧があがっていったのだ。もちろん他のメンバーは誰ひとりまだ起きだして来ない。だいたい遅くまでやっているのだ。オヤジたちは飲みつづけ,若者たちは喋りつづける。筆者は新潟で暮らしている時と同じで、午後10時を過ぎてくると眠気に襲われる。現在モンゴルはサマータイム制を採っているので、日本との時差はない。ただ屋外は日本と比べ物にならないほど遅くまで明るいが。

 さて,こうした霧のなかにいるのは悪くない。独特の空気を感じる。何だか,いっとき別世界に迷い込んだような気さえする。が,まもなくすると雲は浮かんでいるものの、晴天が望めた。

 ちょっと考えてみた。どうしてこんなに深い霧が発生するのか?おそらく,それはシシケッド川とテングス川という二つの河川に挟まれた地形だからだろう。そして,降雨量の少ない土地だからこそ、この霧は植物たちにとっても大切な湿気なのだと思う。

 結局この朝、他のメンバーが起きてきたのは8時近くになってからだった。日々別世界、日々異体験。 (K.M)

(615) モンゴル日記(330)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて78 】

北モンゴル最奥部を訪ねて78

北モンゴル最奥部を訪ねて78

 こちらのキャンプに移動して来て4日目の早朝。正確に述べると6時ちょっと前,こうした幻想的な場面に遭遇した。目を覚ますと、外は深ーい霧があたりを覆っていた。写真上は草原側、写真下はシシケッド川周辺である。

 夕べというか7時間ほど前には、あの虹の出現に感激した。その後に寝て起きたら、この風景だ。北モンゴルの神様は、滅多にやって来ない日本人を歓迎してくれているのだろう。滞在している間に、あれこれ劇的なシーンに会わしてくれる。こちらも異国の,それも最果ての地に来て感動させてもらっている。

 さて,外に出てみると寒い。きっと10℃以下だろう。それでコテジに戻ってオーバーを取って来る。そうしているうちに、霧の風景は秒単位でどんどん変わる。霧は薄くなってきて、明るさもかすかに増してきた。この間、ひょっとしたら数分かもしれない。

 新潟市の自宅周辺でも、年に数回は霧か靄かは分からないが、こうした現象が起きる。おそらくそれは,筆者たちの地域が信濃川,阿賀野川,小阿賀野川の三川に囲まれているからだろう。

 こんなふうに風景を一変させるのは、こうした霧,あるいは積もる雪だ。眠る前と翌朝起きた時の、その風景の変容ぶり!外の風景を劇的に違わせてくれる。その変貌度というか落差感というのは悪くない。現在は生活者だから、大雪だけは困るが。

日々変容、日々驚き。 (K.M)

(614) モンゴル日記(329)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて77 】

北モンゴル最奥部を訪ねて77

北モンゴル最奥部を訪ねて77

 引きつづき例のアカツクシガモ一家の話題である。筆者にとって彼らの観察は、ここでの張り合いのひとつになった。

 上の場面では,どうやら片方の親鳥(オス?)が欠けているようだ。時々こうした場面はあった。エサでも探しに行ったのだろうか?さて,この写真の背景にある抽水植物帯は、彼らにとって生活環境の一部になっていると考えられる。実際に餌場や避難場所となっていたようだ。ある時には、彼らがここに逃げ込む姿を目撃している。なお抽水植物は,水生植物のなかで水の中から突き出て成長するようなタイプ、たとえばマコモ,ガマなどだ。これらは群落を形成しやすく、川でも植生基盤である泥土と、ゆるい流れがあれば成立しやすい。

 下の写真はきれいに撮れた。これには親ガモ2羽と子ガモ9羽すべてが写っている。いちばん手前の前・後にいる,大型で明るい茶色の羽で頭が白の2羽が親鳥。それに比べ小型で、羽色も頭も親鳥ほど明るくないのが子鳥だ。

 彼らをずーっと追っかけていても、見飽きなかった。ただ彼らはたいてい一ヶ所に留まっているわけではない。だから彼らが移動するときは、こちらもそーっと少しづつ移動する。しかし,いったん彼らから見て,目立つような動きをすると、彼らは警戒して泳ぎを早めて遠ざかって行った。

 どうも筆者の方が彼らのカモになっていたカモ?! 日々鳥みだし、日々ワクワク。 (K.M)

 

(613) モンゴル日記(328)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて76 】

北モンゴル最奥部を訪ねて76

北モンゴル最奥部を訪ねて76

 上・下とも例のアカツクシガモ一家の写真である。はじめは上の写真のように、子ガモたちだけが泳いでいた。下流から上流に向かって、9羽ぜんぶがいたようだ・・・。最初のうち,その姿だけしか目に入らなかったから、「子どもたちだけでは危険じゃないか!親はどこへ行ったんだ?」。早とちりをしてしまった。

 と,まもなく気づいた。子ガモたちが向かう先の上流の岸辺に、親鳥はちゃんといた。下の写真だ。まるで彼らを見守っているかのような様子。「ははァ,こりゃ泳ぎを教えているのか。なるほど,なるほど」。感心をした。

 鳥類は飛ぶ能力は当たり前、そのうえ彼らは水鳥だから泳ぐ能力も備わっているわけだ。ただし,こうした能力も経験の積み重ねがないと,うまく発揮できないだろう。だから親がこの大事な能力を鍛えるべく、天敵監視なども兼ねて,こうしていると考えられる。動物行動学などまるで知らない筆者ではあるが。

 だいたい動物の姿を見ているのは楽しい。小さい頃はそうではなかった。しかしいつの頃からか、霊長類に興味を抱くようになった。そして能力とご縁があれば、某大学の霊長類研究所に行く夢もあった。しかし,やはりそれは夢に終わった。ただ,所在地だけは同じ京都のある私大に進んだ。

 振り返ると,京都での学生生活はユーフクではなかったが、楽しかった。・・・日々カネなし、日々心配なし。 (K.M)

(612) モンゴル日記(327)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて75 】

北モンゴル最奥部を訪ねて75

北モンゴル最奥部を訪ねて75

 虹がかかった!! 異国の果てで虹を見た! まったく予想もしていなかったことだ。新潟では近ごろあまり目にすることがなかった。そんなこともあったせいか,北モンゴルの空にかかったこの七色の半円に、しばし見惚れていた。虹というのは見る人の心を静かに躍らせるものだ。子供のころは興奮に近い感情を覚えたが。

 今回のこの虹はキャンプの近くで発生したのか,大きくてまるでシシケッド川に架かったような構図だった。それで「消えるなよ,消えるなよ」と願ったが、結局10分と持たなかったろうか。それはカメラの時刻が裏付けていた。22時10分頃から数分だったような気がする。

 上の写真はいわばシシケッド川右岸側のものだ。Bさんと筆者が寝起きするコテジの、その彼方に虹の端があった。また下の写真は左岸側のもので、森林豊かな対岸の山にかかっていた。

 これはモンゴルに来て2度目に見た虹だった。最初はウランバートルで夕立があり、その直後に出現した。しかし、その時は虹がだいぶ遠くで小さく、感激はあまり覚えなかった。しかし、今回は突然であり(まァ,予定していて出現する虹というのは聞かないが)近くで、筆者にすれば劇的だった。だから感激の度合いが強かったのかもしれない。

 まァ,虹の原因として思い当たるのは、夕方襲ってきたごく短時間のにわか雨くらいだったが。日々予想外、日々劇的。 (K.M)

(611) モンゴル日記(326)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて74 】

北モンゴル最奥部を訪ねて74

北モンゴル最奥部を訪ねて74

 牛たちはキャンプに度々やって来た。そのことは前に述べた。しかし今回は上の写真のように、草を食べるのはそっちのけにして、日かげに入ってドデンと休む猛者が現れた。「おおっ!」、思わず驚いた。「しかし・・・どこか具合でも悪いのだろうか?」この牛は大きな体で、きっと体重は何百キロもあっただろう。

 彼(彼女?)は夕方,10頭前後の仲間といっしょにキャンプに入って来た。まァ,体はいちばん大きいようだった。そして態度もデカかった?! コテジに体を寄せて、こんな風に日差しを避けていたのはこの1頭だけだった。おそらくグループの中ではボス格と思われる。そして,ひょっとして腹は空いていなかったのかも知れない。

 北モンゴルと言えど、たしかにこの日は暑かった。晴天だったこともあり、昼間はいっとき32,33℃に達したようだ。それで筆者たちも日かげに入ったり、コテジに逃げ込んだり。

 ところで,下の写真である。これが前にも言及したことがあるが、ツーリストキャンプを囲っている柵の出入り口なのだ。滞在中ずーっとこのままの状態だった。機能など果たしていない。ほんと、オブジェなのだ。しかし,こちらもそれが全く気にならなくなった。結局,この牛たちは20時過ぎまでいた。

 大らかな景色と大らかな人々のなかにいると、こちらも大らかになる?! 日々ゆったり、日々大ざっぱ。 (K.M)

(610) モンゴル日記(325)

【 北モンゴル最奥部を訪ねて73 】

北モンゴル最奥部を訪ねて73

北モンゴル最奥部を訪ねて73

 上の写真は今回のツアーで最も気に入った一枚である。シシケッド川の岸辺で、たまたま放牧の牛と川面を泳ぐ水鳥がタイミングよく共存する場面をとらえた。幸運にも,彼らの生き生きしたようすをひとつのフレームで撮影できた。

 はじめのうちは川を下流へと泳ぐ,例のアカツクシガモ一家を追っかけていた(写真下)。カモたちにとって、自分たちに興味を抱く日本人の旅行者のことなぞ知ったことではない。だから,水面で止まってポーズを作るなんていう芸当はしてくれない。そのまま下流に泳いでいった。

 一方,7頭の牛たちはみな若い牛で、あたり前だがカモのことなど全く眼中にないようす。仲良く川辺の短い草をのんびりと食べ続けていた。

 と,しだいにカモたちが岸辺にいた牛たちに近づくような構図になった。「おおっ,おもしろい情景になるぞ。こりゃあチャンスだ!」、とばかりにシャッターを押す。そして,上の写真とあいなった。カモたちが泳いで水面に描いた、飛行機雲のような波紋の線も鮮やかに写っていた。

 実はこの”名場面”は撮影したあと、すっかり忘れていた。けれど帰国してから、何百枚という写真を順繰りにチェックしていたら発見した。そこで,「これは絶対ブログに載せよう」と、その時から決めていた。

 写真家というのは、風景のなかに詩を見いだす達人かもしれない。日々情感、日々詩心。 (K.M)